7-2 枷
カイトが侵入した巨大要塞の内部は、彼の想像を絶する光景だった。
通路の壁面には、古代の神殿を思わせる幾何学的な文様が刻まれ、その溝を純粋なエーテルの光が血液のように脈打ちながら流れている。
空気は澄み切り、荘厳な聖歌のようなものが、どこからともなく響いてくる。
しかし、その神々しいほどの美しさとは裏腹に、そこには生命の温かみが一切感じられなかった。完璧に計算され尽くした、冷たい神の庭。
行く手を阻むガーディアンも、もはや機械ではなかった。エーテルそのものが意志を持ったかのような半霊体の巨兵や、遺伝子操作で異形の姿に変えられた宇宙生物が、カイトを排除すべく襲いかかってくる。
だが、今のカイトにとって、それらはアンナへ至る道を阻む障害物でしかなかった。彼は何の感情も示さず、ただ効率的に、冷徹に、それらを破壊し、突き進んでいく。斥力の刃が霊体を切り裂き、時空間ロックが巨獣の動きを封じる。
彼の心は、アンナとの再会という、たった一つの目的のためだけに最適化された機械と化していた。
そして、ついに彼は要塞の最深部、玉座が置かれた巨大な聖堂へとたどり着いた。
ステンドグラスのように輝く天井からエーテルの光が降り注ぐ中、広大な広間の奥、一段高い場所に置かれた純白の玉座に、一人の人影があった。
「よく来た、カイト・アッシュフォード。我が片割れよ」
その人影がゆっくりと立ち上がり、光の中へと姿を現す。
銀色の髪を長く伸ばし、神話の彫像のように整った顔立ちを持つ、美しい青年。カイトとさほど変わらない年齢に見える。だが、その瞳には、人類の歴史を全て見届けたかのような、底知れない叡智と、そして全てを見下す神の狂気が、静かに宿っていた。
「俺はアベル。この聖域の主であり、お前たちの、そしてこの銀河の、新たなる神となる者だ」
アベルと名乗った青年は、カイトの知らない世界の真実を、まるで子供に物語を読み聞かせるかのように語り始めた。
「エーテル。それはかつてこの宇宙を創造した、神と呼ばれる超高度知性体の力の残滓だ。そしてカイトとアンナ。お前たちはその神の遺伝子を最も色濃く受け継いだ双子の転生体なんだよ。そして二人の力が完全に共鳴した時、俺は宇宙の理さえも書き換える創生の奇跡を起こせる」
「統治局のくだらない管理社会も、お前たちのちっぽけな自由への抵抗も、全ては、お前たち双子の力を最大限まで高め、この場所へ導くために私が描いたシナリオに過ぎない」
「俺も神の血を引く者だ。俺の目的は、二人を器として神の力を奪い、不完全で愚かな旧人類を一度淘汰し、自らが選んだ優れたサイ=ダイバーだけによる、永遠に清浄な新世界……そう、【エーテル・ガーデン】を創造することだ」
「さあ、感動の再会の時間だ」
アベルが語り終えると、彼の背後の床から、一体の白い医療ポッドが、静かにせり上がってきた。
透明なカプセルの中には、安らかな顔で眠る少女の姿があった。傷一つない、美しい寝顔。
カイトが、その命を賭してでも取り戻したかった、最愛の妹、アンナだった。
「アンナ……!」
カイトの心に、初めて人間らしい感情が迸った。憎しみも、怒りも、戦う理由さえも忘れ、彼はただ、妹の元へと駆け寄ろうとした。
その時、アベルが冷酷に手をかざした。
「再会を喜ぶのは、まだ早い」
カイトの『テンペスト』と、アンナの眠るポッドが、禍々しい紫色のエーテルの枷で繋がれてしまった。それは、まるで二人の心臓を繋ぐ、呪われた臍の緒のようだった。
「その娘の心臓には、私の創ったサイ・ボムが埋め込んである。お前がこの聖域から一定距離以上離れようとすれば、その心臓はエーテルの光と共に美しく爆ぜるだろう」
アベルは、悪魔のように微笑んだ。
「おっと、それだけじゃないぞ。その娘は、今や、お前のエーテル、つまり、お前の生命力を供給されなければ、一時間と生きてはいられない身体だ。お前は、彼女を生かすための、ただの餌になったというわけだ」
人質。そして、生命維持装置。
カイトは、アンナを救うどころか、その命綱を握られ、自らが生きる糧とされるという、二重の地獄に突き落とされた。
「さあ、選ぶがいい、カイト・アッシュフォード。私にひれ伏し、神の器となることを受け入れるか。それとも、ここで愛する妹もろとも、無意味な反抗の末に消え去るか」
絶望。
完全な、光の一筋も見えない、絶対的な絶望が、カイトを支配した。アベルを倒せば、アンナが死ぬ。従えば、銀河の自由が永遠に失われる。どちらを選んでも、待っているのは地獄だけ。
その、カイトの精神が完全に砕け散ろうとした、瞬間だった。
『カイト! 聞こえるか! 無事なのか!』
コクピットに、懐かしい声が響いた。ジンの声だ。
カイトを追ってきたアレスの別動隊が、ついにこの聖域にたどり着いたのだ。
『カイト、応答して! 今、ノアが要塞の構造を解析している! 必ず助け出すから!』
レナの声も続く。
仲間たちの声。
それは、暗黒の絶望の底に差し込んだ、ほんの僅かな、しかし確かな光だった。
そうだ。俺は、独りぼっちじゃなかった。
カイトは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に宿っていたのは、怒りでも、悲しみでも、絶望でもない。全てを覚悟した者の、極限までの静けさだった。
「……お前の思い通りには、させない」
カイトは、アベルに向けて、静かに、しかし決然と言い放った。
アンナを救う。そして、アベルの野望も打ち砕く。
その万に一つもない可能性に、彼は自分の全てを賭けることを決意したのだ。
カイトの背後で、彼とアンナを繋ぐエーテルの枷が、まるで彼の決意に嘲笑うかのように、禍々しい光を放った。
聖域の神と、悪魔になることを決めた少年。
銀河の運命を賭けた戦いが、今、始まろうとしていた。
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