第10話 重症恋煩い


 結局。吉田は帰っては来なかった。夕方になり、事務所に姿を現したが、特になにも言わなかった。しかし、その表情はいつも通り。きっとうまくいったのだ、と蒼は思った。


 翌朝。目が覚めてみると、喉の調子が悪かった。


(蛍の二次予選、もすぐなのにな)


 蒼は、喘息の薬を吸入してから出勤する。積もっては溶け、積もっては溶けを繰り返しているおかげで、路面はアイスリンクのようにツルツルだ。いつもなら自転車でさっさと出勤できる場所なのに。


 徒歩での通勤は、思ったよりも時間がかかる。こうも悪路が続くと、公共交通機関も頼りにはならない。やはり自分の足が一番なのだ。


 転ばないように苦労しながら、やっとの思いで星音堂にたどり着く。時間を確認すると、まだ誰もきていない時間だろう。蒼は一番であることに安堵した。


 星野からは「下っ端だからって一番に来ることはねーぞ」と言われてはいるものの、やはり一番ではないと気が済まないのだ。


 朝日も顔を出し、辺りは明るくなってきていた。気分よく職員玄関へと歩いていくと、不意に「遅い」と大きな声が響いた。


「ひい」


 あまりにも驚いて、蒼は首を引っ込める。


(誰!?)


 きょろきょろと辺りを見渡すと、職員玄関の入り口に胸のところで両腕を組み、仁王立ちになっている般若のような男が一人——安齋だ。


(なんで、この人がここに!?)


 蒼は何度か目をこする。昨日、色々なことがあったからか、幻覚でも見ているのではないかと思ったのだ。しかし、どうやら現実らしい。安齋はあっという間に蒼の目の前まで距離を詰めてきた。逃げる暇もない。


「わわ」

「わわ、ではない。遅刻だぞ。覗きが趣味の新人」

「すみません!!」


 蒼は思わず頭を下げた。


「ちょっと、歩いてきたもので……」

「遅刻の理由など聞いてはいない」


 ピシャリと怒られて、蒼は視線をさ迷わせた。


(うう、やっぱり怖いじゃないの。この人。おれは苦手!)


「あ、あの。今、開けます。事務所、開けますから……」


 蒼はのろのろと職員玄関に近づいて、キーボックスに手を掛けた。こうも睨まれていると、挙動不審になるものだ。心臓がどきどきして、手元が覚束ない。いつもだったら、スムーズにできる動作も、ままならなくなる。吉田が安齋に罵られていたのは、元はと言えば、安齋が圧力をかけているからに違いない、と蒼は確信した。


(ひえええ、これじゃあ、言いたいことも言えないし。尾形さんだって、吉田さんだって、実力を発揮できないよね……)


「別に開けろとは言っていない。ことづけをしにきただけだ」

「こ、ことづけ?」


 蒼は、驚いて振り返った。安齋は低い声で一言「吉田は体調不良で休み。そう課長に伝えてくれ」とだけ言った。


「吉田さんが、体調不良? お、お休み、ですか?」


 彼が休むことなど滅多にない。蒼の脳裏によからぬ場面が浮かぶ。縄でぐるぐる巻きにされて、安齋に蹴りを入れられている吉田が浮かんだのだ。

 蒼は安齋に飛びついた。


「まさか! ……安齋さん! 吉田さんになにかしたんじゃないでしょうね!?」


(昨日、安齋さんの意向を無視して、付き合っていることを話たから? 吉田さん、けちょんけちょんにされてしまったの!?)


 蒼は安齋のコートの胸倉を摑まえると、グイグイと引っ張った。


「吉田さんになにかしたら許さないんだから!」

「なぜおれが吉田になにかすると思うのだ?」

「だって! 吉田さんにひどいことばっかり言っていたじゃないですか! 吉田さんはすごいんですから。あなたにあんなことを言われる筋合いはないんですから!」


 もうこの際だ。はっきり言っておいたほうがいいと蒼は思った。


「いいですか! 吉田さんはおれの大切な先輩で、本当に優しい人なんです。おれのミスだって揚げ足取ったり……はするけど、それでもいざとなると、夜遅くまで付き合ってくれたりするんですから!」


(吉田さんを侮辱するなんて許せないんだから! いくら恋人だってダメ!)


 む~っとして見上げると、安齋は笑っていた。


(あれ? あれれ? なんで?)


 蒼は肩透かしを食らった様子で、掴んでいた手の力を緩めた。


「えっと、なんで笑うんですか!」


 蒼は戸惑って安齋を見上げていた。彼はひとしきり笑うと、「はーあ」と大きく肩で息を吐いた。


「久しぶりに笑わせられた。まったく、お前は変なヤツだな」

「なにがおかしいんですか」

「いやいや。あいつに、こんなに慕ってくれる後輩が出来たってことがおかしくて。いや、嬉しいというべきか」


 安齋は目元を拭うと、蒼を見下ろす。


「吉田は、ドジで頭が足りない男だ。おれが抜けた後に入ってきた、新人にいじめられているのではないかと心配していたが。お前の言葉を聞いて安心した。あいつも、やっと一人前になったのかもしれないな」


 彼は「お前も昨日の話は聞いたのか?」と尋ねた。蒼は「はい」と答える。安齋は蒼から視線を外すと、小さい声で言った。


「おれがせっかくパワハラ案件で済ませようとしたのに。あいつは割って入ってきて……。あんな下世話なおやじたちの前で話などさせたくなかったというのに」


 安齋は一瞬、唇を噛みしめて、悔しそうな表情を浮かべた。


(ああ、この人は、本当に吉田さんが大事なんだな)


「あいつに、あんな辱めを与えていいのはおれだけだ」

「え?」


 蒼は目が点になる。


「あいつを泣かせていいのはおれだけなんだ」

「は、はい。わかりました」


 蒼は「やっぱり怖い人だ」と思った。吉田はよくこんな男を相手にしているものだ。蒼には到底理解ができない愛情だと思った。


「吉田さんは変わってますよ。本当に。おれだったらごめんなさいです」


 蒼はぶっと頬を膨らませるが、安齋も「悪いが、おれも願い下げだ」と言ったかと思うと、踵を返す。


「遅刻する。無駄な時間を使ってしまった。お使いくらいはできるだろうな。覗きが趣味の新人」

「ですから、おれは熊谷蒼です!」


 安齋は笑みを浮かべると、姿を消した。玄関の前に取り残された蒼は一人ぼんやりと佇んでいた。


 安齋は吉田にいかれている。口も悪い。態度も威圧的。しかし、吉田を思う気持ちだけは一途。


 それを見抜いている星野や水野谷は人間を見る目がすごい、と蒼は思った。


(安齋さんの恋の熱量はすごすぎる。おれは蛍のこと、そんなに大事にできるのかな)


 なんだか関口が恋しい。蒼は大きくため息を吐いてから、青い空を見上げた。







—第七曲 了—

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