第3話
名門公爵家の長女として生まれたセレナには、その夢とはかけ離れた「義務」が課されていた。王国随一の美貌と家柄を持つセレナは、王子妃として申し分ないとされ、その婚約は幼い頃から既定路線だった。五歳で婚約が交わされて以来、セレナの人生の進路は、まるで一本の太い縄で縛られたかのように、定められていた。
政略結婚という言葉が、セレナの幼い心に重くのしかかった。彼女の未来は、彼女自身の意志とは無関係に、王家の都合によって決定されていた。それは、まるで敷かれたレールの上を、ただひたすらに進んでいくような感覚だった。
婚約相手の第一王子、ルキウス・フォン・ロゼリアは、社交界で「光の王子」と称されるほどの美青年だった。金色の髪は太陽のように輝き、整った顔立ちには常に完璧な微笑みが浮かんでいる。女性はこの姿にメロメロだろう。
また、彼の一挙手一投足は、常に国民の注目を集め、そのカリスマ性は多くの人々を惹きつけた。国民は、美しき王子と公爵令嬢の婚約を、まさに「絵に描いたようなロマンス」として讃えた。王都の街中には、二人の肖像画が飾られ、誰もがその将来を羨んだ。だが、その外面とは裏腹に、彼の心は常に己の権威と見栄にしか向かっていなかった。彼は、セレナの美貌とアスターディア公爵家の後ろ盾だけを求め、彼女自身の心や情熱には一切目を向けない。
セレナにとって、ルキウスとの交流は苦痛でしかなかった。彼は、セレナがどんなに熱心に動物たちの治療法や新薬について語っても、興味を示すどころか、あからさまに退屈そうな表情を浮かべた。彼の瞳は、常にセレナの容姿や身に着けているドレスにしか向けられていなかった。彼の言葉は、常にセレナの心をえぐり取るようだった。
「セレナ。君が王妃となるならば、そのような獣臭いものに触れるのは慎むべきだ。王妃は、この国の顔なのだから。君が動物の世話をしていると、手は荒れ、ドレスは汚れる。それでは、王妃としての威厳が保てないだろう。君は、僕の隣で、ただ美しく微笑んでいればいいのだ。それが君の役割だ。わかったかい?セレナ」
ある日、セレナが王宮に併設された獣医施設への視察に同行を求めた時のことだ。王宮の獣医施設は、その当時、老朽化が進み、決して衛生的とは言えない場所だった。悪臭が漂い、動物たちの悲鳴が響き渡る。ルキウス王子は、その場所を一瞥するなり、露骨に顔をしかめた。
「獣臭い場所など、君が行くべきところではない。そのような場所で時間を浪費するくらいなら、社交の場に顔を出し、王妃としての品格を磨くべきだ。君に、そのような下賤な場所で汗を流す必要はないと思うぞ。王妃は、常に清廉で、美しくあるべきなのだ」
彼の言葉には、嫌悪と侮蔑が込められていた。セレナが懸命に研究し、半年をかけてようやくまとめた、動物たちの感染症に関する画期的な論文を見せれば、彼はそれを一瞥するなり、鼻で笑った。
「女のくせに、小難しいことを考えるな。君はただ、僕の隣で美しく微笑んでいればいいのだ。君にそのような小難しい知恵は必要ない。それに、こんな泥臭い研究をして、一体何になるというのだ? 王妃の仕事は、国民を慈しみ、王子の隣で微笑むことだ。それが義務だ。獣の命など、どうでもいい」
彼はそう言い放つと、まるで価値のないものを見るかのように、その論文の束を机の端から床へと投げ捨てた。散らばった紙が、乾いた音を立てて床に広がる。セレナの長年の努力と情熱を、まるでゴミのように扱う彼の行為は、彼女の心に深い傷を残した。その夜、セレナは自室で、散らばった論文を一枚一枚拾い集めながら、人知れず涙を流した。その涙は、悔しさよりも、むしろ自分の無力さに対する悲しみだった。
セレナは、そんなルキウスとの結婚生活を想像するだけで、鉛のように重い鬱屈とした気持ちに苛まれた。息苦しい日々だった。王宮の生活は、豪華絢爛な檻の中に閉じ込められているようだった。美しく装飾された部屋、豪華な食事、高価なドレス。全てが彼女の心を縛り付けているように感じられた。このまま、自分の人生は、ルキウス王子の隣で、飾り物にされるだけのものなのだろうか。彼女の心は、深い絶望の淵に沈みかけていた。夜な夜な、自室の窓から満月を眺め、自由を求めて涙を流すことも少なくなかった。満月だけが、彼女の孤独な心を照らし、微かな希望を与えてくれるように感じられた。
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