第35章 夜の境界線

 夜の校舎は、まるで別の場所のようだった。


 昼間は喧騒の中に埋もれていた廊下が、今は沈黙のなかでこちらを見つめてくる。人のいない空間というのは、それだけで異常だ。だが、俺の違和感はそれだけじゃなかった。

 空気が、張りつめている。息をするたび、喉の奥に何かが引っかかるような重さがある。——嫌な予感が、皮膚のすぐ下で蠢いていた。


 俺と麻倉は、旧校舎の入り口に立っていた。


 分厚い鉛の扉は、鍵の持ち主が許可しない限りの決して開かない。閉ざされたままのその質量が、今夜に限っては無防備に口を開けていた。


「鍵が開いている」


 低く呟いた麻倉の声は、誰に向けたでもない。報告でも警告でもない。ただ、空気に向けて漏れた言葉だった。


 足元に、外れた南京錠が落ちている。床には足跡が2つと、何かを引きずったような線。だが、急いで外した形跡はない。誰かが“自然に”この扉を開けたということだ。答えは言うまでもない。麻倉の兄、真白——。


「やっぱ、先に動いてたか」

 俺が呟いても、麻倉は黙って扉に手をかけた。その仕草はためらいを欠いていて、それが逆に不自然だった。


 ギィィ……と、蝶番の悲鳴。


 この瞬間、確かに実感した。


 ——俺たちは、もう「戻れない場所」に足を踏み入れた。 



 ※ 



 ぼんやりと周囲を照らすランプの灯りが頼りない。揺れる光が天井の染みを這い、壁に浮かぶ影が、まるで誰かが後ろに立っているかのような錯覚を与える。


 でも、俺は慣れていた。嘘や闇の気配は、いつだって人の隙間に潜んでいるからだ。


 俺たちの足音だけが、廊下にこだまする。その音が、やけに大きく響いて、妙に生々しい。


「なあ、麻倉」

 背中に声をかけた。答えがあるかは分からなかったけど、放っておけなかった。

「お前、怖くねぇの?」


 麻倉は振り向かない。ただ歩調が、ほんのわずかに速まった。


 それが答えだった。


 俺は思わず、小さく笑った。

 この男は、そうやって全部押し込めて突き進む。自分が潰れようがどうなろうが、お構いなしに。


「お前さ。そういうとこだけ、兄貴に似てんだよなぁ」


 その言葉に、麻倉の肩がわずかに揺れた。でも、やっぱり何も言わない。

 無理もない。あいつの目はもう、焦りと後悔と恐怖で飽和してる。だから、代わりに俺が言葉を持つ。


 そういう役回りくらい、わかってる。



 ※



 目的地の前に立った。閉鎖区域の奥の、そのまた奥に眠っていた部屋。


 俺と清一が見た光景。あの部屋で、清一と同じ制服の学生たちが「対象者」として目には見えない鎖に繋がれていた。


 目の前の扉の奥に、今度は清一がいるかもしれない。

 冷静さを保つつもりだった。だけど、指先が少し震えているのがわかる。


「行くぞ。時間がない」

 麻倉が扉のノブに手をかける。

「待てって」

 俺は思わず止めた。

「何だ」

「お前……顔が死んでる。鏡見てみ?」

「……」

 麻倉は動かない。でも、目だけがこちらを見た。

「お前が壊れたら、清一も助けられねぇんだよ。感情に任せて突っ走るの、そろそろやめろ」

「……考えてる」

「嘘つけ。考えてたらそんな顔にならねぇ」


 俺は、目の前の“ポンコツ”を睨んだ。


「お前、清一のことになると本当ダメだな。でも……それでいいんだよ。人間なんだから。俺が横にいりゃ、どうにかなる」


 麻倉の目が、わずかに揺れた。氷の下に、微かな熱が戻ってくるのが見えた。


「……助かる」


 掠れた声。でも、ちゃんと生きてる人間の声だった。



 ※



 部屋の前で、一度だけ呼吸を合わせた。

 その一瞬が、やけに長く感じた。まるで深夜の手術前。成功か失敗か、それで全てが決まる。


「行くぞ」

「任せろ」


 扉が、静かに、しかし確実に開かれる。


 まるで棺の蓋のように、その隙間から闇が覗いていた。


 でも、俺はもう迷わない。

 これは清一のためであると同時に——俺自身の意地だ。


「やろうぜ、麻倉」


 俺は隣にいる無言のバディに目を向けた。


 もう、夜の境界線は越えてしまった。

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