第1章:戸籍がない男


 神様と結婚しろと言われたのは、生まれて初めてだった。


「……ちょっと、ばあちゃん、もう一回言って」


「だから言ったじゃろ。ご神体の封印を解いたんじゃから、責任をとって、結婚しなさい」


 神社の居間。畳の上に正座させられ、美弥は頭を抱えていた。

 傍らでは、あの白装束の男――葦原が、まるで当たり前のように座ってお茶を飲んでいる。


 しかも、ちゃっかり祖母のお手製の漬物をつまんでいるのだ。神様ってそんなラフなの?


「待って。そもそも、私は封印を解くつもりなんてなかったし!」


「だが、意志は関係ない。触れたことで、契約は発動した」


「そのルール、誰が決めたのよ!? いやいや、そもそも人間じゃないよね? 戸籍とか、どうすんの?!」


 美弥が声を上げるたび、葦原は涼しい顔で応じる。

 それがまた腹立たしい。なにこのマイペース神様。


「戸籍……とは、いわゆる人の世界における登録制度のことか?」


「そう、それ! 神様だからってスルーできる問題じゃないのよ!? 役所に提出できないでしょ、婚姻届!」


「形式にすぎぬ。我らが交わした契約こそが、真の“縁”だ」


「屁理屈言ってんじゃないわよ!」


 思わずちゃぶ台を叩きそうになって、ぐっとこらえる。

 祖母はといえば、そんなふたりのやり取りを縁側からのんびり眺めているだけ。


「……で、結局、どうして結婚しないといけないの?」


 ようやく少し落ち着いて、美弥は問い直す。


 祖母は少しだけ目を細めた。


「この神社は“結界”の要じゃ。けれど、代々巫女の血が弱まってな……本来の力を保てなくなっている」


「つまり……?」


「ご神体との契約――“婚姻”によって、結界を補強する必要があるのじゃよ。おぬしの血と、神の力をひとつにすれば、ここは守られる」


「そんなの、聞いてない……!」


 だが、ふと。


 隣に座る葦原が、目を伏せて呟いた。


「我は、長く封じられていた。今の世に、もはや居場所などない。だが……君が名を呼び、手を伸ばした。その時、たしかに繋がった」


 その声は、思いのほか静かで――ほんの少し、孤独を帯びていた。


 美弥は、何か言いかけたけれど、喉の奥で言葉が絡まって出てこなかった。


 ……でも、それと結婚は別問題でしょ!!


「わかった。仮に、ほんの仮に、結婚したとしても。これは“仮”だからね!期間限定!期限つき!いい!?」


「仮初めの契約……ふむ、それで構わぬ。いずれ、君の心も変わるだろうからな」


「はあ!? 勝手にフラグ立てないでよ!」


 もうほんと、なんなんだこの神様は!


 こうして――ご神体と人間の、“仮初め夫婦生活”が始まった。



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