第19話
マリーにもアーサーにも汚いと言われたので、反省して自室へ着替えに戻った。鏡に映して見た顔は汚れで黒くなっており、洗って、髪も梳かした。
服を着替えてさっぱりした格好でダイニングルームへ行き、アーサーとエレノアの夕食に突き合った。イザベラは再びハンガーストライキに入っているらしく、その姿は見かけなかった。
イザベラもなあ。なんとかしなきゃいけないんだろうが、解決策が見えて来ない感じだ。
それにダイニングルームから自分の部屋へ戻り、ワインを一杯飲んだらそのまま寝落ちしてしまっていた。
荷馬車で揺られながら寝て帰って来たとは言え、掃除しまくった疲れが出たらしい。
翌朝。マリーに起こされると、学校へは昼に行くことになったと告げられた。
ならば。
「では、それまで町で市場…いえ、散策してもいいですか?」
「…分かりました」
微妙な表情で頷いたマリーは、私が食料を買い込んで来ているのに気づいているようだが、口を出すつもりはないらしい。
支度を調えた後、マリーも一緒に馬車で町へ向かった。先日と同じく、馬車置き場で待ち合わせることにする。
「今日は学校へ行かなくてはいけませんから、十二時の鐘を聞いたらお戻り下さい」
え。そうなの?時間なくない?
学校に行くと言ってしまったのを後悔しつつ、取り敢えず頷いて、早足で川沿いの市場へ向かった。
相変わらず、美味しそうなものや珍しいものがたくさん並んでいて、目移りしてしまうのだが、今日は時間もないし、何より大事な使命がある。
蜂蜜酒を扱っている出店を探して歩いていると、橋の近くで蜂蜜酒のボトルが並んだ店を見つけた。
「いらっしゃいませ。年代物の蜂蜜酒も揃ってますからね。何でも聞いて下さいよ」
太鼓腹の店主は、私が着ているドレスを値踏みして、金持ちの奥様が買い物に来ているのだと考えているようだった。
顔は隠しているが、ベアトリスの綺麗な顔を見たら、もっと愛想がよくなるんだろう。
色々教えてくれそうだと思い、お勧めを聞いてみた。
「ご主人が飲まれるんですよね?」
「ええ。主人は舌が肥えているので、美味しいものでないと納得してくれませんから」
「だったら…この五年物なんか、どうでしょう。テオドリアで開かれた品評会で金賞を獲った酒ですよ」
なんと。品評会なんてものがあるのか。
試飲は出来ますか?と聞くと、店主は快く頷き、白い陶器の小さなカップに注いでくれる。
「……」
薄い黄色の液体は、この前、マリーが用意してくれたものより、濃度が低いような感じがした。あの時の蜂蜜酒はもっととろりとしてたんだけど。
匂いも…余りしない。
でも、金賞のお勧め品だ。さぞ美味しいのだろうと思って飲んでみると。
「……」
薄い。
まずいというほどじゃないけど、これ美味しい…?という感想しか出てこないのは、先日飲んだ蜂蜜酒の衝撃が強かったからだ。
これで金賞なら、あれは何賞なのか。
あれか。やっぱり侯爵家だから、お酒とかも特別なものを用意してるのか。
没落貴族だけど。
私の反応が薄いのを見て、店主は「あれ?」という顔をした。
「お口に合いませんか?」
「…うちの主人は、もっと味の濃いものが好みだと思います」
他のお勧めはないかと聞いた私に、店主はちょっとむっとした表情を見せた。
ならば…と出してきたのは、十年物だという蜂蜜酒だった。
「これはアルザリア地方でも有名な酒造所で造られているものなんですよ。これならばご納得頂けるんではないでしょうかね」
そう言って、店主が差し出して来た試飲用カップを受け取る。
さっきのよりも色が濃く、琥珀色に近い液体は濃度も高そうだ。
匂いも甘い。
これは期待出来るかもと思って飲んでみると。
「……」
うーん。さっきよりはマシ、なくらいかなあ。
私が無言で首を傾げるのを見た店主は、我慢ならないというように鼻をフンとならした。
「どこの奥様だか知らないが、味が分からないんじゃないのかい?」
おっと。
機嫌を損ねてしまったかな。
でもなあ。お世辞を言う必要もないしなあ。
「味は分かりますよ」
美味しかったら素直にそう言ってる。
だからこそ、反論したのだが、店主はカチンと来たらしい。
「何言ってるんだ。この十年物の美味しさが分からない奥さんに出す酒はもうないよ」
「そうなんですか?」
だったら、こっちの方が願い下げだ。
たくさん並んでるから、美味しい蜂蜜酒があると思ったのに。
期待外れだと思い、立ち去ろうとした時だ。
「おや。また会いましたね」
「……」
背後から聞こえたその声は。
もしや。
驚いて振り返った先には、一昨日、追い剥ぎに襲われかけた時に助けてくれたユリシーズが立っていた。
相変わらずの男前ぶりだ。
この前、一緒にいたスレインとかいう護衛の姿はなく、一人のようだった。
まずい。
何がまずいって、ユリシーズは貴族仲間かもしれず、ベアトリスを知っている可能性がなきにしもあらずなのだ。
ショールをきつく巻き直しつつも、顔を背け、「失礼します」と言って立ち去ろうとしたのだが。
「蜂蜜酒を買うのではないのですか?」
「……」
ユリシーズはそれとなく私の行く手を阻み、尋ねてくる。めんどくさいなと思いつつ、「いいえ」と首を振った。
「思ったようなものがなかったので」
「何言ってんだ。アルザリアの十年物の味が分からない客なんて、こっちから願い下げだよ」
正直に伝えたところ、店主は怒った口調で吐き捨てる。
こっちだってこの店で参考に出来るものはないよ。
言い返したかったけど、ベアトリスである以上、騒ぎになるような真似は出来ない。無視して立ち去ろうとしたのだが、ユリシーズは退いてくれず、にこやかに店主に話しかけた。
「アルザリアの十年物か。飲んでみたいな」
ユリシーズの言葉を聞いた店主は、表情を明るくした。話の分かる相手だと思ったのだろう。早速、試飲用のカップに蜂蜜酒を注いでユリシーズに渡す。
「旦那は味が分かる人みたいで嬉しいよ。大体、女に十年物なんざ、もったいないんだ。味が分かるはずがない」
女には酒の味が分からないなんて、どういう理屈なんだ。そういうの、ジェンダーバイアスって言うんだよ?
むっとして店主を見た私の横で、ユリシーズはカップに注がれた蜂蜜酒を興味深げに見ていた。
「ほう。これがアルザリアの十年物…」
意味ありげに呟き、匂いを嗅いでから、口をつける。一口飲んで、すぐにカップを主人に返した。
「こちらの奥方に買って欲しいのならば、本物を出すべきだ」
「え…」
「これはアルザリアの十年物ではないね。そうだとしてもかなり混ぜ物がしてある」
「何言って…っ」
「香りも味も全然足りない。アルザリアの十年物だと言われて仕入れたのなら、相手が悪かったんだろう」
そうなの?じゃ、私がさほど美味しくないなと思ったのは、間違ってなかったのでは?
自信満々で言うユリシーズに対し、店主は言い返さなかった。青い顔をして黙っている店主に、ユリシーズはにっこり笑って忠告した。
「あなたも商売するなら相手を見なきゃいけない。美味いものに慣れている相手に、産地や年代は関係ないんだよ。本物でなきゃ、買っては貰えない。本物を仕入れる気があるのなら、ちゃんとした業者を頼らなきゃ」
店主よりもユリシーズはかなり若かったが、その言葉には重みがあった。
俯いて沈黙したままの店主から視線を外し、「行きましょう」と私を促す。
いや。
私はとっくに立ち去るつもりだったんだが、そっちが邪魔して来たんじゃないかと困惑しつつも、ユリシーズと連れ立って歩く羽目に陥った。
「市場には色んな店がありますが、紛い物を扱っている店も多いんです。ちゃんとした蜂蜜酒を欲しいのであれば、確かな店を紹介しますけど」
「いえ…」
大丈夫です…と素っ気なく断り、離れるタイミングを窺う私に、ユリシーズは「ところで」と切り出した。
「先日は聞けなかったのですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
ぎくっ。
そういう展開になるのが厭だから、立ち去ろうとしてたのに。
偽名…を使うとバレた時めんどくさいかな。
どうしよう…と悩んでいると、ユリシーズは「失礼しました」と慌てて言った。
「自分が名乗ってもいないのにお名前を聞かせて頂けるはずがありませんね。私はユリシーズ・カーナック。貿易商で、カーナック商会という貿易会社を経営しております」
「……」
貿易商ってことは、貴族じゃないの?
貴族だったら、なんとか侯爵ですとか言うよね?
そうか。だとすると、ユリシーズがベアトリスを知っている可能性は低くなる…?
ちらりとユリシーズを見て、小さな声で「ベアトリスです」と名前だけ告げた。
「……」
私が「ベアトリス」と名乗るのを聞いたユリシーズは、表情を硬くした。
一瞬、バレたか?と背筋が冷たくなったけれど、レイヴンズクロフト侯爵夫人だと分かって、驚いているという様子はなかった。
それよりも…どこか、意外に思っているような雰囲気がする。
しかし、その反応は見間違いだったみたいにすぐに消え、ユリシーズはにっこりと笑って「ベアトリス様」と口にした。
「今日もお連れの方とは別行動なのですか?」
「え…ええ。後ほど、待ち合わせしております…」
侯爵夫人だとバレた様子はないのに安堵しつつ、貿易商だというユリシーズについて考えていた。
さっきの店で蜂蜜酒に詳しそうだったのは、もしや、蜂蜜酒も仕事で扱っているとか?
だとしたら、品質だけでなく、流通とかにも詳しいのでは?
これは…聞いてみるしかないと思い、「あの」と切り出した。
「ユリシーズさんはお仕事で蜂蜜酒も扱ったりするのですか?」
「ええ。ですから、確かな品を扱う店を紹介出来ます」
欲しいわけじゃないんだが、どういうものがどれくらいの値段で売られているのかを把握する為にも、店に行った方がいいだろうか。
そう考え、「ご面倒でなければ」と前置きして、紹介を頼んでみると。
ユリシーズは嬉しそうに笑みを浮かべ、「喜んで」と居酒屋の店員みたいなことを言った。
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