03-08
*
午前中の授業を終えて、羽々木志恵(ハバキ・シエ)が寮へと戻り靴を履き替えようとした時──ふと感じた異変に手が止まった。自分の靴箱から、禍々しい黒い靄が漏れていたのだ。
恐る恐る中を覗いてみると、靴入れに入れてあったスリッパの上に、黒い粒のようなものが山となって盛られている。黒い靄はその黒い粒の山から発せられているようだ。
その粒々が何か分からず、怖々と志恵は顔を近付ける。すると──。
「──ひッ!?」
それは蟻の死骸だった。大量の蟻の死骸がスリッパの上、左右に一つずつきっちりと円錐形に盛られていたのだ。余りの驚きに志恵は腰を抜かし、ぺたんと尻餅をつく。
「え、どうしたの志恵ちゃん。ちょっと大丈夫、何が……うわっ、何これキモっ、グロっ、えっえっ」
丁度寮へと帰って来た親友の戸村(トムラ)が志恵の様子に驚き、次いで志恵の靴箱の異変に再度驚愕する。更に揃って帰寮した乙紅莉栖(キノト・クリス)や戸村の後輩の月岡(ツキオカ)、夜刀八千代(ヤト・ヤチヨ)も騒然となった。
「ぎゃあ、何コレ! えっ蟻? 蟻!? 何、嫌がらせにしては酷くないですか? マジ志恵先輩可哀想!」
「うわっ。これえぐっ。えっ気持ち悪っ、鳥肌立っちゃう! どうやったらこんなの思い付くんですかね」
「これ、呪法……しかも相当強い。こんなの、普通にやっていいものじゃない……」
「ちょっと、え、こんなのないわー! ね、ね、志恵ちゃん立てる? ちょっとこっちで休んでて。ホラ動けないでしょ? 気にしないで、いいからいいから。私らに任せておけばいいから」
戸村は志恵を支え立たせると、おもむろに少し離れたソファーに座らせる。そして四人は示し合わせたかのように動き始めた。
「ほらこれ、ビニール袋持って来たよ。崩さないようにそのまま……そうそう、もうスリッパごと袋に入れて縛っちゃおう」
「うわあ、中まで全部蟻……何匹いるんですかね。こんなのに労力使うぐらいなら別の事すればいいのに」
「靴箱の中には零れてないみたいだけど、一応拭いといた方がいいですよね。ちょっと寮母さんに雑巾借りて来ますね」
「志恵センパイ、大丈夫? あのスリッパはもう履かない方がいいから、自分、購買で買って来る。前とおんなじ赤のチェックでいい?」
志恵が呆然としている間に、四人がてきぱきと処理を終える。数分も経たない内に靴箱は綺麗になり、クリスはロビーのソファーに座らされた志恵の前に新しいスリッパを置いた。
「え、……と。ありがと、クリスちゃん、みんな。わたし、びっくりして……その、みんな凄い。わたしが何も出来ない間に全部やってくれて、本当に……」
戸惑いながら謝意を述べようとする志恵の肩を、ぽん、と戸村が叩いた。志恵が伏し勝ちだった顔を上げると、戸村は志恵に満面の笑みを向ける。
「いいっていいって、皆、志恵ちゃんの事分かってるんだから。気持ちは充分伝わったよ。お互い様だから気にしちゃダメ、ね?」
「そうですよ、いきなりあんなの見たらびっくりして動けなくもなりますって」
「本当に困った事あったらいつでも頼ってくれていいんですよ。一人でなんて抱え混んじゃ駄目ですからね」
皆の口々の言葉に志恵は嬉しさで涙ぐむ。そしてクリスが突然ぎゅ、と志恵の腕にしがみ付いた。
「志恵センパイ、自分がいるから。みんながいるから。大丈夫だよ、ね?」
「そう、だね、そう、だよね……うん、ありがとう、クリスちゃん」
そして志恵は笑顔を見せて立ち上がる。何事かと遠巻きに見ていた生徒達も散り、志恵達は揃って歩き出した。志恵の腕には相変わらずクリスがしがみ付いたままだ。
新しいスリッパは何だか軽いように思えて、志恵の心を浮き立たせてくれる。傍にクリスが居てくれるのも心強かった。だから自室の前に置かれた墨のように真っ黒な盛り塩も、扉に貼られた気味の悪い呪符も、志恵はさほど気にせず片付ける事が出来た。
「最近また、増えてるよね、嫌がらせ」
クリスの呟きには少し心配そうな色が混じっている。志恵はつきそうになる溜息を、ぐっと奥歯を噛んで飲み込んだ。ちりり、と髪に着けた銀の鈴が、小さく鳴った。
*
土曜の午後、志恵は一人で学園の敷地内を散歩していた。昼食後から所属する同好会『植物研究会』の活動で花壇の世話をしていたのだがそれも終わり、特に予定も無く何となく気晴らしでもしようと思ったのである。
教室棟からは吹奏楽部や合唱部の練習が響き、グラウンドや体育館では運動部の上げる声が幾重にも重なっている。志恵は普段の運動不足を少しでも解消出来たらとぐるり外周を歩き、やがてひとけの少ない体育館の裏手、非常門の辺りへと差し掛かった。
「あれ、誰か……いるみたい」
普段は誰も寄り付かないベンチの辺りに、何人か人が集まっているのが見える。そっと様子を窺うが、上がるかしましい声は志恵にも聞き覚えのあるものだった。志恵は思わず足を止め、見付からないよう体育館の壁に身を寄せる。
そっと覗くと、──思った通り、それは桜谷聡美(サクラタニ・サトミ)達のグループだった。
何故彼女らがこんな所に居るのかは分からないが、避けられるならトラブルは未然に回避した方が良いだろう。志恵はそう考え、きびすを返そうとした、その瞬間──。
──きゅううぅっ! と悲痛な鳴き声が聞こえた。同時に重なるのは、桜谷達の馬鹿みたいな笑い声。
はっと志恵は声のした方へと振り返る。げらげらと下品に笑う人の輪の中、桜谷が高く掲げた右手の中。そこに、尻尾を掴まれ吊された子狸の姿が見えた。じたじたと手足を暴れさせ、尻尾の付け根に結ばれたリボンがひらひらと揺れる。
ちりん、と鈴が鳴った。間違い無い、あれは──。
「──絹田さん!」
志恵は思わず走り出していた。無我夢中で上げた声に桜谷達が驚き、一斉にこちらを振り返る。皆が予想外の出来事に固まっている中、志恵は何も考えず、勢いのまま桜谷へと突っ込んだ。
「やめて! その子を放して!」
「ちょ、な──!?」
志恵と桜谷は揉み合いになりながら、二人揃って地面へと転がった。本来なら体格の大きな桜谷を華奢な志恵が押し倒せる筈が無いのだが、突然の事に反応が出来なかったのだろう。周囲の皆も呆然と二人を見詰め固まっている。
やがて上に乗った志恵の身体を桜谷が跳ね飛ばすと、志恵は転がりながらも投げ出された子狸をその腕へと庇った。子狸はきゅううと鳴き、志恵の胸に身体を擦り寄せて来る。ちりちりと金色の鈴が鳴る。
「ああ、やっぱり絹田さんだ。無事で良かった」
地面に這いつくばったまま志恵がそう呟くと、ようやく呆然としていた皆が我に返った。桜谷も身体を起こし、土埃を払って立ち上がる。
「……ちょっと、何なの。私達が先にその狸と遊んでたんだけど、横からかっ攫うなんてどういうつもり?」
剣呑な色を宿す桜谷の声にビクリと肩を震わせ、しかし志恵は絹田さんを庇うように抱き締めて顔を上げる。皆が面白そうに志恵を見詰めている。桜谷の視線が強い。
「どういうつもりかって言ってんのよ、ねえ聞いてる? たまたま私達が門の所で狸を見付けて、楽しく遊んでたのよ。それをあんたは突然突き飛ばして、それで狸を奪ったってワケ。これってまるで強盗じゃないの」
志恵は強く唇を噛んだ。皆の視線が痛い。怖くて仕方が無い。でも、腕の中には絹田さんが居て、わたしはこの子を守らなくちゃいけない。強くならないと。わたしが、守るんだ──。
「遊んでた、って……いじめてたじゃない、尻尾持って! 辛そうな声で鳴いてたじゃない! だからわたし、助けなきゃって……!」
「……っ、」
反論した志恵の態度に、軽く桜谷がたじろいだ。どうやら抵抗されるとは思ってもいなかったのだろう。
確かに今迄、志恵は虐めに毅然と立ち向かった事など一度も無かった。嫌、やめて、とその場では叫んでも、結局は項垂れて泣き寝入りを続けて来たのだ。だからこそ桜谷達は安心して志恵を虐めてきたのだ。
だが今、志恵は反抗した。少し震えながらも、抵抗の言葉を吐き、桜谷の視線を真っ直ぐに受け止めた。
──一瞬、何も言葉に出来ず桜谷は何度か口を開閉させ、そしてみるみる顔を赤く染めた。虐められる側、地位が下だと思っていた志恵に反抗されたのが、余程悔しかったのだろう。桜谷は拳をぎゅっと握り締め、怒りにかぶるぶると震えている。
「この……っ!」
感情のままに桜谷は拳を振り上げる。周囲の皆から制止の声が飛ぶ。
そして志恵はぎゅっと目を閉じ首を竦め、絹田さんをその胸の中へとしっかり抱き締めた──。
*
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます