02-10


  *


 保健室の白いカーテンに囲われたベッドの上で、眞柴空覇(マシバ・カラハ)は気怠げに身を起こした。額に薄く滲んだ汗を拭い、乱れた髪を無造作に掻き上げる。


「……もう行っちゃうの?」


「ああ」


「ゆっくりしていけばいいのに。終わったら直ぐにサヨナラなんて、つれない人ね」


 隣で寝ていた養護教諭の析口(セキグチ)が腕を絡み付かせてくる。空覇同様に析口の長い髪も乱れ、半端に捲られた衣服が濃厚に情事の痕を匂わせていた。空覇は露わになった析口の豊かな胸から目を逸らすと、上気した白い肌をやんわりと押し退ける。


「終わった後は煙草、吸いたくなンだよ。保健室じゃ流石に吸えねェだろ」


 そう吐き捨てつつ立ち上がって着衣の乱れを整える空覇に、析口はふふ、と妖艶な笑みを漏らした。


「そういう事にしといてあげる。……ねえ、眞柴先生。また来てくれる?」


「気が向いたらな」


「本当につれないわね。ふふ、でもそこがいいわ。逆に追い掛けたくなっちゃう。本気になってしまいそうよ?」


 隣のベッドに投げ出していたスーツの上着を羽織ると、空覇はちらと析口を振り返る。言葉とは裏腹にその顔には余裕めいた笑みが浮かんでいた。手櫛で髪を整える仕草も、動く度に揺れる胸も、熟れた唇をちろりと舐める舌も、乱れたままのスカートから覗くガーターベルトも、全てが計算され尽くしたた色香を放っている。


 ──この女は危険だと本能が警鐘を鳴らしている。だが好物である酒も女も我慢している現状では、上物の女からの誘いを断れる余裕が空覇には無かったのだ。情報収集の為とは言えど保健室に足を運んだのがそもそもの間違いだった。


 しかしもうやってしまった事は仕方が無い。空覇はそう開き直ると、乱暴にカーテンを開け入口へと向かう。


「ね、また来てくれるでしょ? これっきりなんて寂しいわ」


 笑みを含んだ声が空覇の背を追い掛ける。確かにこの女は魅力に溢れている。また誘われたら抗えない事を空覇は自覚していた。しかしそれを見透かされているように思え、空覇は軽く舌打ちを零す。


「……ああ、またな」


 そう言葉を残し、空覇は掛かっていた鍵を開けると保健室を後にした。


  *


 既に陽は落ち、薄暗い教室棟の廊下には人の気配が殆ど無かった。空覇は緩んでいたネクタイを締め直しながら男子寮へと帰るべく歩みを進める。


 ──と、不意に前方の扉がガラリと開き、誰かが姿を現した。その人物は廊下に響く足音にこちらを向くと、笑顔で空覇に親しげな声を掛けてくる。


「──おや、眞柴先生じゃないですか」


「ああ、山路先生でしたか。どうしたんです、こんな時間に」


「いえね、教員休憩室に荷物を置き忘れていた事を思い出しましてね。眞柴先生はどうしてこちらへ?」


 ロマンスグレーの髪に眼鏡を掛けたその人物は、世界史教員の山路(ヤマジ)であった。山路は空覇が近付くのを待ち、並んで歩き出す。


「俺も似たような感じです。この後、山路先生は職員寮ですか? それとも教員室へ?」


「もう仕事も終わりましたし、職員寮へと戻ろうかと。眞柴先生は男子寮ですよね、途中までご一緒しても?」


「ええ、勿論です」


 無人の廊下に二人の足音が響く。少し授業の事などを話しながら歩いていると、教室棟を出る直前──不意に、山路が真剣な表情で空覇を呼び止めた。


「……眞柴先生、あの」


「どうしました、山路先生」


 二人は立ち止まると向かい合って視線を合わせた。山路は一瞬辺りを見回してから、空覇に一歩近寄った。周囲に人影は皆無だ。空覇も少し背を屈め、山路と目を合わせる。


「眞柴先生は、その……信頼出来る方だと思いまして。普通のいわゆる『教師』とは少し違った感性をお持ちのようですが、生徒には真摯に向き合っておられます。何より真っ直ぐで裏表が無い方だと」


「え、あ、はあ。ありがとうございます」


「ですから、忠告しておきたいと思いまして……」


 歯切れの悪い山路の言葉の続きを、空覇は辛抱強く待つ。恐らくこれは大事な、学園の何か秘密めいた物に関連する話に違いない──黙って山路を見据える空覇の視線を真正面から受け止め、山路が再び口を開いた。


「僕は長くこの学園に勤めて来ました。若い頃に事故で妻子を亡くしましてね、自暴自棄になっていたところをこの学園の先代理事長に拾われたのです。僕はだからずっと、恩義を感じて教師としての務めを果たしてきたのです」


 淡々と山路が語る。その言葉は静かで、そして平坦だった。感情の籠もらない声に空覇は黙って耳を傾ける。


「しかし僕はずっと疑念を持っていました……妻と娘の巻き込まれた事故の不自然さが、どうしても気になっていたのです。しかし警察にただの事故であると言われてしまってはもう調べようもありません。諦め、忘れ、教師として充実した日々を過ごしていたそんな或る日、ふと気付いてしまったのです」


「何に、ですか」


 山路の瞳は少し虚ろで、しかしその奥には鈍く光る何かを宿していた。淡々とした口調の裏に、感情が燻る。


「呪法、というのですよね、あれは。生徒達が虐めの一環として『のろいごっこ』で使っている呪符、それにそっくりな物を僕は見た事がある。それを、思い出したのです。──事故のあった当日の朝、たまたま覗いた妻のバッグの中。そこに、呪符が紛れているのを」


「……っ! まさか、そんな」


「まさか、とそう思いますよね。しかし、それが誰かが意図的にやった事だと考えれば、全て辻褄が合うのです。……僕は学園の中で生活しながらも、外にいる友人や、或いは調査を専門にしている業者などに頼み、出来る範囲でですが調べました」


 山路の顔に薄らと笑みが浮かぶ。それは諦念か、自嘲か、それとも。


「……結論から言いますと、妻子の事故は仕組まれたものだったのですよ。但し、法で裁く事は出来ません、何せ『呪法』は法には触れない手段です」


 話を聞きながら空覇は、調査部が纏めた書類の内容を思い出していた。──この学園の卒業生の中には、学園で培った呪法の技術を使い続ける者達もいるという。そんな空覇の思考を余所に、山路は静かに言葉を紡いでゆく。


「また、奇妙な事も分かりました。──僕が実は、この学園を創立した八色家の遠縁である、という話です。もしかしたらなのですが、僕をこの学園に呼ぶ為に、邪魔な妻子を排除したとしたら……? そのような妙な想像を、僕は妄想だと切って捨てる事が出来ませんでした」


「それは、前提が逆、なのだと……? 奥さんや娘さんを亡くした山路先生を理事長が雇ったのではなく、山路先生を呼び寄せる為に、山路先生が一人になるよう仕向けた事だと?」


「そうです。実際に、代々の理事長はこの学園に八色の血縁者を集めているという噂があるのです。血縁、と言ってもその名字はそれぞれ違いますし、少し遡った程度では分からない程の薄い物だそうですが」


「でも、それは……噂、なんですよね?」


 息を飲み問う空覇に対し、山路はゆるゆると首を振る。


「僕も信憑性の無いただの噂だと思っていました、小説などで良くある絵空事の類いだと。しかし、──たまたま耳にしてしまったのです。理事長と誰かが話している内容を」


「それは……一体?」


「それはこういったものでした──『今年、念願の八匹の蛇が揃った。スペアを含めて十人。これでようやく、一族の悲願が達成出来る』と……」


 空覇はギリ、と背中に走る悪寒に奥歯を噛む。空覇の瞳を見る山路の眼の奥に、ゆらり朧な恐怖と、そして憎悪めいた炎が揺らめいている。


「眞柴先生、『蛇』に気を付けなさい。それが誰の事を指すのか、彼らの悲願とやらが何なのか、何を成すつもりなのかは定かではありません。しかし、これだけは覚えておいて下さい。『蛇』にご注意を」


「蛇……」


 口の中でその言葉を繰り返す空覇に頷くと、山路は表情を一変させ、いつもの柔和な笑顔に戻った。何かを問いたげな空覇の視線から逃げるように、渡り廊下へと続く扉に手を掛ける。


「僕が知っているのはこれだけです。──さあ眞柴先生、行きましょう。随分とお時間を頂いてしまいましたね、早くしないと夕食の時間が終わってしまいます」


「ああ、……そうですね」


 空覇も山路に続き渡り廊下へと歩みを進めた。思ったよりも外を吹き抜ける風は冷たく、電灯の明かりは薄ぼんやりと頼り無い。


 凝った闇がそこかしこでとぐろを巻き、蠢く気配を感じながら──空覇はただただ、山路の言葉を心の中で反芻し続けるのだった。


  *


<二章:成長する芽と、憂う日々──了>

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