02-05


  *


 八色学園生徒寮の門限は夜九時である。門限と言いつつも八時半までには寮に戻っている事が望ましく、そして八時五十分までには自室に居なくてはならない決まりだ。生徒は九時丁度に点呼を受け、以降は余程の事情が無い限りは寮を出る事は許されない。


 消灯時刻である十一時までは寮内の設備を自由に使って良いが、なるべくなら二階の自習室で勉学に励む事が推奨されていた。点呼を終えた羽々木志恵(ハバキ・シエ)と乙紅莉栖(キノト・クリス)は自習室へと向かうべく、連れ立ってぽてぽてと廊下を歩いていた。そんな時──。


『一〇二号室の羽々木さん、一〇二号室の羽々木さん、お電話です。至急ロビーへお越し下さい』


 寮母による放送が寮内に響いた。外部からの電話を受け付ける電話機はロビーにあり、生徒宛の電話が掛かるとこうやって寮母や寮監が呼び出しを掛ける仕組みだ。


「電話だ、お母さんからかな……ゴメンねクリスちゃん、先に一人で行っててくれる?」


「うん、分かった」


 行ってらっしゃい、と手を振るクリスに志恵も手を振り返し、急いでロビーへと向かう。お母さんからよ、とにこにこ告げる寮母に、ありがとうございますと礼をして志恵は受話器を取り上げた。


「──もしもし? お母さん?」


『ああ志恵、久し振り。元気だった?』


 少し疲れた感のある、しかし懐かしい母の声に、志恵の表情がぱっと綻ぶ。なかなか電話出来なくてゴメンね、と言う母に、ううんと志恵は返事をした。


「わたしは元気だよ、大丈夫。お母さんこそ平気? 今日はお仕事無いの?」


『今日は夜勤明けだったから、今起きたところなの。それより志恵の方はどうなの。心配な事とか無い? 春休みもずっとそっちだったけど、大丈夫? ちゃんと食べてる?』


 志恵の母は大きな病院の看護師だ。不安定なシフトの所為で疲れを見せる母が、志恵はいつも心配だった。もっと楽な病棟に移るか入院の無い病院に転職すればいいのに、と志恵は何度か母に言った事があるが、母はいつも患者さんの為だから、と笑って首を振るばかりだった。


「うん、ちゃんと食べてるよ、学園のゴハン美味しいし。それにね、わたしも二年生に上がって部屋の後輩が出来たんだ。クリスちゃんっていうハーフの可愛い子なんだよ、わたしももうセンパイなんだよ」


『そう、志恵ももう二年生だもんね。ちゃんとおねえさんみたいな事出来るんだ。そっか、凄いね志恵』


「あとね、勉強もちゃんと頑張ってるよ。学内の成績も悪くないし、全国模試でも結構いい順位だったよ。このまま頑張れば志望校も問題無く行けそうだって、担任の先生にも言われたんだ」


『そっか、もう志望校の話も出てるんだ……、頑張ってるんだね志恵。あのね、志恵は遠慮せずに好きな大学行っていいからね、自分で決めていいから。でも悩んだらいつでも相談してね。でもね、頑張り過ぎないでね。お母さんは志恵が元気でいるのが一番だから』


「うん、ありがと、お母さん」


 少しだけ二人の間に沈黙が落ちる。受話器越しに薄く聞こえるのは、以前母が好きだと言っていた男性アイドルグループの曲だ。志恵は静かに深呼吸をすると、思い切って声を発した。


「あのね、お母さん……、あの人達、は……? 今は、いないの……?」


 少しだけ息を飲む音が聞こえた。そして続くのは、少し不自然に明るい母の声。


『あの、蔵人さんは、今日は出張で……、久遠君も塾で遅いし、だからお母さん、今一人でゆっくりしてるの』


「……そう、なんだ。いないんだ、良かった」


 志恵の口から少しだけ安堵の息が漏れる。確かにあの男達が居たならば、母がこうやって志恵にゆっくり電話を掛けたりは出来ないだろう。──改めて、母を置いて全寮制の学園に一人で逃げた後ろめたさに、志恵の心がズキリと痛んだ。


「ごめんね、お母さん……、わたしその、」


『志恵は気にしなくていいから。お母さんは大丈夫だから。志恵はやりたいようにやればいいの、志恵の人生なんだから、お母さんの事で気を病まないで』


 被せるように言われ、志恵は申し訳無さで胸が苦しくなる。何か言おうとしても言葉が見付からない志恵の鼓膜を、母の柔らかな声がうつ。


『それにね、蔵人さんもそんなに悪い人じゃないのよ。久遠君もちゃんと言う事聞いてくれるし……。お母さん上手くやってるから。ね、だから心配しないで。何も気にせず、志恵は青春してなさい。ね?』


「……うん」


 きっと母は嘘をついているのだろう。必死で隠そうとしても、微かな声の震えを志恵は感じ取ってしまう。しかし、それを指摘した所で余計に母を困らせるだけだ。だから志恵は、気付かない振りをしてただ頷いた。


 それから志恵は楽しい学園生活の事、主にクリスや友人とのエピソードを語って聞かせた。心を脅かされる怪異や虐めの事は決して喋らなかった。お互い様だな、と志恵は心の中で溜息をついた。


『あ、そろそろ久遠君が帰って来る時間だから、ごめんね。……志恵、元気でね。また電話するから』


「うん、お母さんも身体に気を付けてね。おやすみなさい、じゃあね」


 別れの挨拶を終え、志恵は沈んだ表情で受話器を戻した。とぼとぼとロビーを離れる。陽が落ちてから降り続いている激しい雨が鼓膜を覆う。


 ──脳裏にあの、男達のいやらしい笑みが浮かぶ。九頭蔵人(クズ・クロウド)と九頭久遠(クズ・クオン)……。母と二人だけのささやかながらも幸せな家庭を壊し、無理矢理入り込んで来たあの親子を、志恵はどうしても許せなかった。


 歩きながら首を振り、志恵は嫌な思い出を頭から追い出そうとする。雨音は強く、闇はなお濃く廊下の隅にうずくまっている。


 ──くすくす、くすくす。


 心をくすぐるのは不快な、音にならない霊達の嘲りの声。引き入れようとする誘いの言葉。道連れを増やそうとする謳い文句。


 ──諦めちゃえばいいのに。こっちに来ればいいのに。一緒に行けばきっと楽しいよ。ねえおいでよ。くすくす、くすくす。


 わたしは、そんな誘いなんかに乗らない──。志恵は唇を噛み、前だけを見る。そして暗がりからの声を避けるように、階段を駆け上がるのだった。


  *

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