5-2

 忘れ物をしたことに気づいたのは、昼休みになってからだった。

「財布がない。スマホもない……」

 道理で、リュックが妙にスカスカして軽いわけだ。


 幸いにしてお弁当は忘れていないけれど、飲み物は購買の自販機で買うつもりだった。財布を忘れていても、スマホケースに入れたICカードで買えるはずだったのに、両方忘れてくるなんて。


「嘉田ちゃーん、購買行くー?」

 曽我さんに尋ねられて、苦笑を返す。

「財布もICカードも忘れちゃったから行けない」

「じゃ、飲み物ないんだ? 自販機のお茶でよければ、ついでに買ってくるよ。この前スポドリおごってくれたお返し」

「ほんと? 助かる」


 拝むポーズで「ありがとう」をして、いつものグループに合流する。

 わたしのいるグループは、集まり方がふわっとしている。昼休みに委員会の仕事や部活の用事がある子ばっかりで、全員が揃うときがない。

 何となく気が合う曽我さんは生徒会で、グループの中でいちばん忙しそうだ。わたしも公演前になったら、昼休みが始まると同時に教室を飛び出すことになる。


 余りものが集まっている、とも言えるのかな。中学時代だったら、余りもののグループには暗いイメージがどうしてもついて回っていたけれど、今のクラスではそんなこともない。

 気楽だな。

 瑞己くんもちょっと変わっているけれど、のけ者にされたりなんかしていないって聞いた。瑞己くんのクラスも、うちのクラスと雰囲気が似ているのかもしれない。

 ……ああ、また、こんなこと考えてる。瑞己くんのことばっかり。


 曽我さんが購買から帰ってくるのを待って、わたしはお弁当を広げた。

 我が家のお弁当は、前日の夕食のとき、おかずを自分で詰めておくのがルールだ。おにぎりは朝食のときに自分で作る。

 両親はデザイン関係の事務所を経営していて、仕事場は家から目と鼻の先だ。両親のお昼はそれぞれのタイミングで、自分で詰めたお弁当を食べているらしい。


 わたしはデザインや設計のセンスが微妙だから、両親の仕事を継ぐことはないと思う。両親もそう認めて、自由にしなさいと言っている。

 だとしたら、わたしは将来、何をやるんだろう? どんな仕事に就いて、どんな暮らしを送っていくの?


 自由に、というのが結局、いちばん難しい。

 将来のことなんて、考えれば考えるほど不安になる。何も見えない。わたしは、得意なこともやりたいこともあいまいで、夢や目標だって見つからない。


 いや、単なる憧れだけで将来を思い描いていいのなら、あるよ。

 演劇を続けたい。脚本や演出のテクニックを突き詰めていって、わたしの主宰で大きな公演を打ってみたい。


 現実を見ようか。

 大きな公演を主宰するだとか、演劇の道で食べていくだとか、そんな才能がわたしにあるだなんて、とても思えない。

 ないんだ、才能。ただ演劇が好きなだけ。お金を稼ぐとか何とかを脇に置いて、とにかく舞台をやりたいだけ。


 そんなふうだから、演劇を続けられるのは、大学までかもしれない。と考えると、演劇を続けるために大学進学を選ぶ、ということになりそう。短大や専門学校じゃなくて、四年制の大学だ。学部や専攻は、課題や実験や実習が忙しそうなところを避ける。

 きっと四年間、使える時間はすべて演劇のために費やすんだ。単位は落とさないよう頑張るとしても、割りのいいバイトを見つけて演劇の活動資金をしっかり稼ぐ。


 そして、大学の卒業が見えてくる頃になって、また同じ悩みにぶつかることになるんだろう。どうにかして演劇を続けられる道はないかな、なんて考えて、仕事の内容は二の次で就職先を決めて。

 先延ばしして逃げて、また先延ばしを選んで。

 わたしの人生、そんなふうに流れていくのかな。そうかもしれないな。


 大きなトラブルのない、ほどほどに穏やかな人生で、ときどきちょっとした成功があれば幸せ。成功っていうのは、やっぱり、舞台がうまくいったらいいなってこと。

 不安だ。

 こんなにふわふわしたまま、時間だけが過ぎて、わたしは大人に近づいてしまう。


「嘉田ちゃん、今日もおとなしい。落ち込みモード続行中だね」

 曽我さんに指摘された。昨日の今日でこの調子だから、ごまかしようもない。

「……一つ悩み始めると、ほかのことも連鎖的に考えちゃって、どんどん沈んでくんだよね」


「嘉田ちゃんはまじめだねぇ。帰りにどっか寄って気晴らししたら? 寄り道、嘉田ちゃんはどこ行く派?」

「図書館か駅ビルの本屋かな。あ、でも今日はダメ。財布もICカードもない」

「だね。今日は午後からだんだん雨が強くなるらしいから、帰れるなら早めに帰ったほうがいいよ。嘉田ちゃん、傘ある?」

「傘だけはある。リュックに入れっぱなしにしてたから」


 瑞己くんに修理してもらった、青いステンドグラスみたいな模様の折り畳み傘だ。もともとお気に入りだったけれど、それ以上の意味を持ってしまった傘。

 また、ため息。

 雨が降り始めた。開け放っていた窓から、雨混じりの風が吹きつけてくる。

 冷たい。朝はもう少し蒸し暑かった気がするけれど。

 わたしは、折り曲げていたカッターシャツの袖を戻した。半袖の曽我さんの腕には、鳥肌が立っている。


「今日は嘉田ちゃん、長袖で大正解だね」

 曽我さんは窓を閉めながら苦笑した。

「ほんとだね」

「ラッキーじゃん」


 惰性で長袖を着てきただけなのに、明るい声でラッキーだと言ってもらえて、わたしはちょっと笑ってしまった。


   *


 午後の授業の間、降り続けていた冷たい雨は、ちょうど放課後になる頃に弱まってくれた。

 霧のような雨が風に乗って舞う中を、わたしは傘を差さずに家まで歩いた。


 家まであとほんのちょっとのところになって、バケツをひっくり返したみたいに、ザーッと強く降ってきた。走ったり傘を差したりする気が起きなかった。リュックを胸に抱えて、背中を丸めて、濡れながらのろのろと歩き続けた。

 もっとびしょびしょに濡れたい気分だった。でも、タイミングがいいのか悪いのか、出先から戻ってきた母に見つかって、「何やってるの?」とあきれられた。


 熱いシャワーを浴びたら、ずいぶん体が冷えていたのを実感した。びしょ濡れの制服は、しまいっぱなしだった夏服と一緒に、乾燥機つきの洗濯機に放り込んだ。


「制服、便利だな」

 冬服は形状記憶のサラッとした生地。スカートも同じく形状記憶の生地で、乾燥機でぐるぐるされてもプリーツはきれいなままだ。夏服のポロシャツはちゃんと汗を吸うし透けないし、中学時代の木綿のセーラー服に比べて、ずっと着やすい。


 舞台の衣装じゃ、こうはいかない。舞台映えと値段の兼ね合いで選ぶ生地は、たいていの場合、着心地や扱いやすさが犠牲になる。汗を吸わずに肌に貼りつくとか、洗濯したら色落ちするとか、アイロンはダメだとか、縫った箇所から布地がほどけたりとか。


「ああ、次の公演、どうしよ? 衣装に手間がかからないやつだと助かるけど」


 洗面所で髪を乾かしながら、洗濯機のドラムの中でぐるぐる回る制服を、見るともなしに眺めていた。

 次の公演、と、思い出してはたびたびつぶやく。

 思い出さない間、くり返し浮かんでくるのは、瑞己くんとの会話の記憶。

 忙しくなるから覚悟してね、と冗談交じりで言ったとき、キラキラした笑顔で「楽しみです!」と言ってくれた。


「一緒にやりたかったんだけどな……」


 頭で考えて、すでにあきらめている部分と。

 でも心がどうしてもあきらめきれない部分と。

 ぐちゃぐちゃに混ざって、わけがわからない。


 昨日の帰り道、友恵が何度も「ストップ」と言ってくれた。スイッチを切るみたいに、悩んだり迷ったりでめちゃくちゃになる頭と心も、パチッとストップできればいいのに。


 肩に軽く掛かる長さの髪は、もう乾いてしまった。だけど、ドライヤーを棚に戻しても、わたしはそのまま、ぐるぐる回る乾燥機のドラムを眺めていた。

 ぐるぐる、ぐるぐる。

 時間だけがどんどん過ぎていく。

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