2-3

 五月半ば。

 昼過ぎから雨が降りだしたその日、わたしは胸にモヤモヤを抱えていた。

 またあの予知夢を見たのを、何となく覚えている。でも、相変わらず、何を壊したり落としたりしてしまうのか、それが思い出せない。


 結局、モヤモヤしながらも無事に放課後を迎えてしまった。

 部室のパソコンで少し作業をしてから、ひとけの少ない生徒玄関のほうへ向かう。帰宅部はもう帰っているだろうし、ガッツリ系の部活はまだ練習の真っ最中という、微妙な時間帯。


 靴に履き替えて、開けっ放しの玄関扉をくぐる。

 雨はずっと降っていたらしい。すっかり気温が落ちている。ちょっと肌寒いくらいだ。

 わたしはリュックから折り畳み傘を取り出して、差そうとした。


「え? 何これ?」


 骨が一本、折れている。

 一応差してみたけれど、折れた骨のところがぷらんと垂れ下がって、雨を防げる範囲はずいぶんせまい。

 いつの間に壊れていたんだろう?


「お気に入りなのに……」


 青を中心にしたステンドグラス風の模様で、多摩子おばちゃんにもらったペンともよく似たデザインで、かわいいんだ。

 わたしは傘を畳んだ。気分が一気に沈んで、歩を踏み出すのもおっくうになってしまった。

 はあ、と、ため息をついたときだった。


「あの……そよ先輩?」


 遠慮がちに声を掛けられた。

 耳ざわりのふわっとした、まだ少し細い感じのする、男の子の声。

 ……今、わたしのこと、「そよ先輩」って呼んだ?


 わたしは振り向いた。

「相馬くん」

 会釈をした相馬くんは、扉をくぐってわたしの隣に並んだ。

「そよ先輩、傘、どうかしたんですか?」


 待って、本当に「そよ先輩」って呼んでる。

 ちょっと待ってよ。この間の打ち上げで、ずいぶんスムーズに会話できるようにはなったけれど、名前を呼ばれた覚えはないよ?

 わたしは動揺しながらも、何でもないふりをして相馬くんに答えた。


「この傘ね、リュックに入れてたら、いつの間にか骨が折れてたんです。お気に入りだから、悲しくなっちゃって」

「ひょっとして、またあの予知夢も見ました?」

「見ました。だから、きっとまた何か壊れちゃうんだなってわかっていて、朝から何となく嫌な気分だったの。そして結局、こうなんだから」


 わたしは相馬くんのほうに傘を突き出して、折れたところを見せた。

 相馬くんは目をしばたたいた。その視線がわたしの顔と傘を行き来する。


「ちょっと、これ、開いてみていいですか?」

「どうぞ」


 相馬くんは、わたしの傘を手に取ると、丁寧な仕草でそれを開いた。ぷらんと折れたところに、長い指で触れる。

 それから、相馬くんはわたしににこりと笑ってみせた。


「折り畳みの機構に関係ない箇所だから、修理できますよ」

「えっ? 直るの?」

「折れたところに添え木をするような感じで、直せます。傘の骨に取りつけて補強するパーツが売ってるんです。それを使ったら、まっすぐに戻りますよ」

「そうなんだ。そのパーツをつけるの、わたしにもできるかな? あ、それって、どこに売ってますか?」


 相馬くんは答えに迷うように、少しだけ沈黙して、そして言った。


「僕が預かって直してきましょうか?」

「でも、それって相馬くんの負担にならない?」

「いえ、全然。手先を使う作業は好きだから、むしろ気晴らしになります。これくらいなら、勉強の合間にでも、すぐできますから」

「そう? わたし、今日はあまりお金も持ってなくて、パーツ代も立て替えてもらうことになるけど、本当にいいんですか?」


 相馬くんはうなずいた。と思うと、目を伏せがちにして、早口で言い募った。


「もちろん、お金のことも全然大丈夫です。き、今日はあと二、三十分もすれば雨がやむみたいなので、少し待ったら、傘がなくても帰れるはずです。僕はもともと傘を持ってきてなくて……そよ先輩、迷惑じゃなかったら、一緒に待ちませんか?」


 あと二、三十分。

 相馬くんと二人で、雨宿りをする。

 傘が壊れていたおかげで。


「いいですよ。雨がやむの、待ちましょう」

 相馬くんは、自分が言い出しっぺなのに、びっくりしたように目を丸くした。

「あ、ありがとう、ございます……」

 何だかおもしろくて、わたしは少し笑ってしまった。


「ありがとうはわたしの台詞ですよ。傘、よろしくお願いします。お礼したいから、何がいいか考えておいてください」

「お礼、ですか?」

「高いものじゃなければ。たとえばケーキとか、おごってあげます」


 相馬くんがパッと顔を輝かせた。そんなに甘いものが好きなのかな?

「次、約束して、会ってもらえるんですか?」

 そんな言い方をされたら、勘違いしそうになるよ。わたしと会って話すこと、それ自体を望んでいるみたいに聞こえてしまう。

 わたしは冷静なふうを装って言った。


「演劇部の活動の話もしておきたいし、時間つくってくださいね。去年の公演の写真やパンフレットなんかも見せるから」

「は、はい。楽しみです!」


 子犬だったら、ぶんぶんと尻尾を振っていると思う。初めて会ったときは人におびえて震えていたけれど、この間、ちょっとだけ懐いてくれた子犬。

 相馬くんって、本当にかわいいな。

 と思った次の瞬間。


 相馬くんはビクリと体を震わせると、わたしの右側にサッと回り込んだ。そっぽを向いた顔が強張っている。

 どうしたの、と訊くまでもない。


 女の子たちの声が聞こえてきた。

 わたしの左側、鉢植えのバラが咲き乱れているところを挟んで十メートルくらい向こうは、一年生の靴箱があるエリアだ。そちらの扉から傘を差して出てきた女の子たちが三人、にぎやかにしゃべっている。


「えー、剣道部の広木先輩と大沢先輩も部活命ってタイプなの? それじゃあ、四組の坂本くんは?」

「あいつもダメ。同中だったから知ってる。片想いしてる相手が別の学校にいるとかで、誰がコクってもあっさり振られる」

「この学校の男子、顔がいい人に限って、堅物と変人が多すぎじゃない? うちのクラスの相馬もさぁ、あの態度はないよね」

「ないねー」

「はーい、同中情報。中一のときはすでにあんなんだったんだよ。もっとひどかったレベル。

女嫌いっていうか女恐怖症だよね、あれ。え、その代わりに男が好きとか?」

「どうなんだろ? あー、でも五条先輩や荒牧先輩にベッタリなんだっけ。怪しー」

「あと、桜井先生も相馬のことかまいすぎじゃない? 女子が話しかけに行ってもそっけないのにさ」

「桜井先生、麗しいよねー! あの顔と声で『源氏物語』教えるとか、説得力えぐいし」

「てか、相馬、ちょくちょく倒れすぎだよね。かまってちゃん? 病弱設定? 相馬、すごい白いし、無駄に似合うのが腹立つわー」


 しとしと降る雨も三つ並んだビニール傘も、にぎやかなおしゃべりをさえぎることはなかった。三人がずいぶん離れていってしまうまで、きゃらきゃらと笑う声は、わたしと相馬くんのところまで届き続けていた。


 わたしは言葉を失って立ち尽くしてしまった。

 相馬くんを連れてその場を離れればよかったと、声が聞こえなくなってから気づいた。

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