あの丘の桜の木の下で…
@Emu4sezn
第1話 春の予感
三月の終わり。
新学期を目前に控えたある午後、榊原 悠真(さかきばら ゆうま)は、ひと気のない丘の上にいた。市街地の端にぽつんと残されたこの小さな丘には、地元の人ですら滅多に足を運ばない。だがこの季節だけは別だった。
桜。
それは丘の斜面を覆い尽くすように咲く、満開の桜の群れ。まるで時間が止まったような景色。風が吹くたびに、花びらが舞い、空と地面の境界を曖昧にしていく。
悠真は幹に背中を預け座っていた。
その向こう、一本だけ丘の頂に立つ桜の木の下に、彼女はいた。
白いワンピースに、紺のカーディガン。春らしくはあるが、病的なほど肌が白い。光に透けそうなほど儚いその姿に、なぜか悠真の目は引き寄せられた。
「ねえ、君。君、そこに座ってるの、毎年見かける気がする」
彼女の声は、風に混ざって届いた。
「……君こそ、いつからそこに?」
「いつからって、変な言い方。でも、そうね……私は、春になるとここに来るの。毎年、同じように」
悠真は曖昧に頷いた。
相貌失認――彼の世界には、他人の“顔”という概念がない。母も、クラスメイトも、先生も、みんな“記号”のようにしか認識できない。だから、名前も声も服も仕草も、あらゆる“ヒント”を総動員して人を判断してきた。
けれど、この少女は不思議だった。声も、姿も、記号ではあるのに、なぜか心に残る。まるで“存在そのもの”を覚えてしまったような感覚。
「名前……聞いていい?」
「いいよ。沙月。早瀬沙月(はやせ さつき)」
「……榊原悠真」
彼女は笑ったようだった。悠真はその笑みを見た気がした。顔は覚えられないのに、笑ったことだけは感じ取れた。
「悠真くんって、毎日来るの?」
「いや……春だけ。ここ、桜がきれいだから」
「ふふ、じゃあ、私と同じだ」
沈黙が、心地よく風と溶けていった。言葉がなくても、そこに“存在”があった。
そして、ふと沙月が言った。
「ねえ、来年も……この桜の下で会えるかな」
「……ああ。たぶん、会える」
「よかった。じゃあ、来年の春まで、さようなら」
「え? もう帰るの?」
「うん。今日はもう十分。風が冷たいし」
悠真が立ち上がると、沙月はすでに背を向けて歩き出していた。
その背中が、どこか寂しそうで――でも、どこか温かかった。
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