第22話
体を起こせるようになった頃からしか記憶はない。母ではない女人が世話をしてくれていた。
吸い飲みから水をもらったことや、額に載った手を覚えている。お母さんではないのだと、朦朧と思った。もういないのだと沁みた。
時々涙がこぼれたが、不思議と時々のことだった。部屋に男が現れた。女人が膝をついて礼をとる。
名を問われた。
千璃、と答える。
早く元気になれ、と笑った。子どもは走り回れとか、そのようなことを言い頭をなでる。
髪は焼けてしまい、揃えたもののばらばらだ。寝台に腰をかけていくらか話していった。
なにを、については覚えていない。ただそれは小さな女の子の心を怯えさせるものではなかったらしく、翌日から千璃は昂鷲に付いて回った。
駆け寄る子どもに嫌がる素振りもなく、昂鷲はよく相手をしてくれた。ほかに知るものもいない場所で千璃は優しくしてくれるその人によく懐き、結局数週間ほどもくっついて過ごしたのだった。
昂鷲さま。そう呼んでいたはずだ。
最後になんと言ったのだったか。別れ際、握っていた手を離し、久蒔の腕に抱かれている千璃の顔を覗き込み、昂鷲は。
――「時間ができたら迎えに行く。生きていろ、千璃」
では昂鷲は、約束を守ったのだ。あれを約束と呼ぶのなら。すでに王であったのだから、命だったのかもしれない。
生きていろ、とは、最低の言だ。けれど、あの時は互いに、その最低を危うくしていた時であった。最低から自分を救ったのが、昂鷲の手であったのだ。
千璃は右手を胸に当て、左の手でそれを包み込む。ぐい、と引かれた手の大きさが、その力強さが今よみがえるようだった。
あれから大きくなった自分の手の、――大きくならなかったはずのこの手の、運命を変えたのがあの手だった。
もう、いい。確かに聞いた声、耐えなくて良いと言ったあの声、待たなくとも良いと告げた声。
あのとき、その姿は見えず光ばかりがあふれていた。本当はそうでなかったかもしれないが、千璃には光しか見えなかった。ただ白い。それしか残っていない。それまでの闇と、それからの光。
そうして千璃はここに居る。
約束を守り、生きて、ここに居るのだ。
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