第9話

 琉衣は歯噛みしながら姿勢を戻す。言われっぱなしは性に合わないが、当人が止めるものを始めるわけにはいかない。


 けれど弱々しくも笑ってみせる千璃を見れば、辺り構わず暴れてしまいたい気持ちになって堪らない。


 せめて皮肉の一つでもと、ぴりりと気の利いた言葉を捜しかけたとき――


「莫迦ね」


 その声に広堂は水を打ったように静まり返った。


 脇息にしどけなく凭れ、伽南は寧ろ楽しげに笑んでいた。決して大きくはない声なのに、誰もがそちらを注視している。


 それが舞賜の迫力だ。張りのある声が続けて言う。


「責ある身の上でそんな真似をするような間抜けの政を、私たちは支えていると言うの? なら私は一差し舞うのも御免だわね。千璃、」


 来なさい、と伽南は空いているほうの手を振った。皆の注目の中、千璃はぎこちなく歩き首座に寄る。


 もっともっとと招かれて顔を近づけた千璃の耳に、伽南は秘密めかして囁いた。


「これはね千璃、本気よ」


 そして香の銘を教えてくれた。


 山笑う。

 それは春を意味しているのだとまで。


――なぜだか伽南のその笑顔に併せ、真摯にと、久蒔の言葉が圧しかかる。誰かの言葉に従うことは、そうとは言わないのだろうと苦く思う。


 楽をしてはいけない。逃げてはならない。自分の気持ちで決めること。

 どうしてこんなことに――


「相当ふかぁくお悩みの様子だな」


 あふれる涙を拭う力もなく、寝台にもたれていた千璃は、突然の声にわずかに身を引き、小さく叫んだ。ここは誰も居ないはずの棟。


 久蒔は王令を負った千璃に静かな場所を与えていた。喧しい娘たちの中に居ては考えられるわけもない、と状態はほぼ隔離に近い。


「だっ――誰っ?」

「名前? 何者? ってこと? 何が知りたい」


 低くなりきっていない声は、少年のものだ。


 きし、と、窓傍の木柵が鳴った。そこに座しこちらを見ていると、感じる。枕辺に置かれた灯は弱く、窓辺までは届かなかった。


「名前なら遼灯(はるひ)。身分はないに等しい。使われ者だな、しがなくも」


 笑いを含んだ声が、大人びたことを。きしり、と再び柵が鳴り、続いてとん、と床が鳴った。


「はる……はるひ?」

「そ」


 ぺたぺたと裸足が畳を踏み、影が近づいてきた。千璃は微動だにせず、待つだけだ。


 やがて光の中に現れた姿は、年の頃なら十三か四、間違いなく少年であった。


 怯んだ千璃の様子にはまるで構わない。つかみ取った白紙に、さらさらとなにやら書いてみせる。


「こういう字を書く」


 つき出されて、反射的に受け取った。手の中で持て余す。大きく書かれた黒い文字が、灯火に揺れて見える。

 黙っていることが不安となりそうで、千璃は急いで言った。


「あたしは」


「千璃。知ってる。おまえに会いに来たんだから。名前とか名乗ろうとすんなよ。窓だぜ、これ? そんなとっから入ってきた怪しい奴相手に、なんで名とか名乗るんだ。俺は怪しくないからいーんだけどさ。てさぁ、ぽかんとかしてないでヒトを呼ぶとかしないわけ?」


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