『ブラック企業辞めたら、黒ギャル女将の温泉宿に拾われました──しかも全員、人生拗らせた宿泊客しか来ない件』

常陸之介寛浩◆本能寺から始める信長との天

プロローグ『こぼれた人生、湯けむりの宿へ』

──疲れた、と、はじめて思ったのは、会社の給湯室だった。


 午前二時。コーヒー片手に、自販機の前でふと目にした鏡の中の自分が、誰より疲れていた。


 シャツの襟はシワだらけで、目の下にはくっきりとクマ。PCのモニターには「未完了」「緊急」「要即返信」の文字が並んでいて、それを見ても何の感情も湧いてこなかった。


 ──これは、たぶん、人生のどこかで落とし物をした状態だ。


 気づいたら、ポケットの中が空っぽだった。夢とか希望とか、笑顔とか。誰に盗られたわけでもないのに、いつの間にかなくしていた。


 辞表を出すのに時間はかからなかった。机の引き出しにあった封筒に「お世話になりました」と書いただけで、会社とのつながりは簡単に切れた。


 後腐れはなかった。──ただ、行き場もなかった。


 


 スマホを開いて「人生 逃避 温泉」と検索する。

 そんなワードで出てきたのが、**《ゆのさき荘》**だった。


 文字通り、温泉の宿。場所は──茨城県北茨城市。聞いたこともない名前だったが、いまの自分にはピッタリに思えた。


 サイトのトップに載っていたのは、明らかにギャルっぽい女将の笑顔と、「まじ神の湯で再起せよ!」の文字。ふざけてると思った。けれど、ふざけてるぐらいがちょうどよかった。


 


 


 そしていま、俺はその“ふざけた宿”の玄関前に立っていた。


 木造二階建て、外観は古びている。だが、看板がすごい。


 


  🌈Welcome🌈

  ギャル女将の温泉宿ゆのさき荘

  ♨疲れた人、まじで来て!♨


 


 ……何このセンス。


 スーツケースを引きながら、ためらいがちに戸を開ける。


 引き戸の音と同時に、宿の奥からドタドタと足音が響き──


「はぁ〜いっ! おつかれちゃーん☆ ようこそーっ!」


 現れたのは、写真通りの彼女だった。金髪ミックス、パーカーだるだる、ショートパンツ、笑顔全開のギャル──


 「女将ですっ☆」と手を挙げて言った彼女に、俺は思わずフリーズした。


「え、あの、予約した宮下です……」


「おーっ! なおっちー! ようこそ茨城♡ てか、顔死んでんね? 生きて帰れるかな?」


「そんな不吉なことを軽く言わないでください」


「いやー、それだけ疲れてんだなーって。あたし見る目あるからさ。まじ、お湯、入って。今日から“湯治しよ”?」


 


 どこまで冗談で、どこまで本気なのか。まったく読めない。


 だが、なぜかこのテンションに抗えなかった。


 


 


◆ 


 


 


「はい、お部屋こちらでーす! 畳はちゃんと拭いたよ! 昨日な!」


「“昨日”か……」


「でも大丈夫! 湯気で全部浄化されてるからっ!」


 


 通されたのは六畳間。古びてはいるが清潔で、どこか落ち着く空気がある。窓からは山が見え、鳥の鳴き声が聞こえる。


「都会、疲れるでしょ?」


 さくら──彼女は自分の名をそう名乗った──が言う。


「うち、まじで“来た人の心をほどく”ってコンセプトなんで。だから、肩に力入ってる人ほど、お湯でヘナヘナなるの。……ね、入りな?」


 


 半ば強引に風呂へと案内された俺は、男湯の暖簾をくぐった。


 


 



 


 ……そして、出た頃には、心がほんの少しだけ軽くなっていた。


 木の桶の音、湯気のにおい、浴場に貼られた「まじで寝落ち注意! 湯あたり歓迎☆」という手書きポスター。何もかもがバカバカしくて、でもあたたかい。


 


「おつかれー。はい、麦茶。風呂上がりはこれっしょ?」


 


 湯上がりに手渡された麦茶を飲み干した瞬間、胃のあたりがじんわりと熱を持った。


 自分がどれほど飢えていたのか、そこで気づいた。


 優しさに。


 


 


◆ 


 


 夕食は、大広間にて他の宿泊者と一緒に。俺のほかに二人いた。


 一人は、小さな骨壷を大事そうに持つ老婦人。

 もう一人は、スーツ姿で「今日、プロポーズする予定だったんですよ……」とつぶやく男性。


 ──なるほど。この宿は、確かに“こじらせ”を集めている。


 


 だが、そんな空気をひっくり返したのが、さくらの存在だった。


「ねー、骨壷持ってる人って、まじで貴重なお客さん♡」


「……ふ、不謹慎じゃないか?」


「え、だってその人が“ここなら連れてってもいい”って思ったってことでしょ? それって……ちょっと素敵じゃない?」


 老婦人は目を細めて、「まぁ、そういう考えもあるのね」と笑った。


 


 プロポーズ失敗男が「ここ、癒しのふりしてただの変な宿ですよね」とボヤいたときも、


「だって、変じゃない人生ってあんの? まじ、全員どっかイかれてっから大丈夫っしょ☆」と即答して、場が和んだ。


 


 


 ……その夜、俺はふと、さくらに尋ねた。


 


「なんで、女将を?」


 


「ばーちゃんの宿だったの。で、亡くなって、引き継いだって感じ」


「簡単に言うけど……大変じゃなかった?」


「大変だったけどさ、あたし、ばーちゃんに言われたことあんの。“あんた、変わってるけど、そういう子がいれば、この宿も変われる”って」


 


 彼女の目が、ほんの一瞬だけ遠くを見た気がした。


「でもねー。最初は地元の人にバカにされまくったよ。『ギャルが旅館とか無理だろ』って」


「……で?」


「見返してやったの。接客で。笑顔で。あと、SNSで。バズらせたった」


 


 彼女はそう言って、豪快に笑った。


 笑い声の向こうで、風鈴が鳴った。


 


 


◆ 


 


 翌朝。出発しようと玄関で靴を履いていると、後ろから声がかかった。


 


「なーおっち。働かない?」


「……は?」


「住み込みOK、まかない三食付き。ギャラは、気持ち」


「“気持ち”ってなんだよ……」


「だってさー、なおっち、顔がちょっとマシになってるし」


「……ちょっとマシってなんだ」


「まじで昨日、目死んでたから。それに比べたら全然“人”じゃん?」


 


 意味不明のようでいて、どこか納得してしまうテンション。


 俺は思わず訊いた。


「俺……役に立てるか?」


 


 彼女は、にっと笑って言った。


 


「まじ立てるって! だってこの宿、わけわかんない人いっぱい来るから。常識人枠、必要なの♡」


 


 


 ──それが、俺の新しい日々の、はじまりだった。


 


(つづく)



《※アルファポリス・第8回ほっこり・じんわり大賞エントリーの為、アルファポリスで先行して公開しています》

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