備忘録:長谷川恵らと滋賀県東近江市政所町にて
2025年4月12日土曜日。
会社員時代の知人である長谷川恵らとの会話をここに記録しておく。
滋賀県東近江市政所町。
深い山に囲まれた細い道の先。
民家が立ち並ぶ場所で車を止めて、元々メモしていた地図と現在地を照らし合わせる。
「本当にこんなところが目的地なんですか?」
「そうだな。大体この辺り。この近くに沢があるはず」
イエローのアクアを停車させて、ガードレールに沿って歩いていく。
横目で茶畑を眺めながら、時々山鳥が鳴くだけの静かな道を進んでいった。
「取材って言ってましたよね。こんなところで何を取材できるんです?」
「殺人現場だよ」
「え?」
「沢のほとりで人を殺して、死体を埋めるのにぴったりな場所を探してる」
「がち?」
「僕は大衆文学作家だからね。よく人を殺すんだ。長谷川は車で待っててもいいよ?」
「いやいや、ここまで来たなら一緒に行きますけど。うちのこと殺すんだけはやめてくださいね」
「それは大丈夫。僕、車の免許持ってないから」
「いや持ってたら殺すみたいな言い方やめてや」
長谷川を少し揶揄いながら、歩みを進めていく。
新人新聞部Kのなんでもお悩み相談室の最後の方で、コラムの語り手が殺人を犯して遺体を埋めた過去を語る場面がある。
そのシーンの描写がやけに細かく具体的で、住所までが書かれていた。
つまりは、今僕と長谷川が来ているこの場所こそが、あの応募作で書かれていた遺体を埋めた地点ということだ。
「この辺かな?」
「ここ? こっから降りるんですか? 道、あります?」
「あの辺から降りれそうじゃない?」
小さなコンクリートの橋を渡った付近。
道路の途中にガードレールの切れ目がある。
そこから完全に錆びて赤黒くぼろぼろになった小さな階段があり、青々とした茂みの中に伸びていた。
見覚えはないが、覚えはある。
コラムの中に、この階段のことが書いてあった。
「ほんまに行くん?
「長ズボンだから大丈夫でしょ」
「これやから都会人は。布の上からでも平気で食われますよ」
「そうなの?」
わざと作られたのか怪しいほど小さな隙間に体を通らせて、僕は山蛭に怯えながら茂みの中を降りていく。
木と木の間に蔦が絡まっていて、腰を低くしないと通り抜けることができない。
錆びついた階段は案外短く、すぐに山道に入り込む。
足元は若干ぬかるんでいて、しっかり力を入れないと滑り落ちてしまいそうだった。
「あ、でも沢はすぐそこにあるね。思ったより近い」
「人殺すなら、もっと山深いところの方がええんやないですか?」
「それ、一理あるね。もしかして誰か殺したことある?」
「馬鹿言うてないで、早よ歩いてください」
長谷川に背中を突かれ、僕は斜道を降りる速度を少し上げる。
しかし彼女の発言は、中々に的を得ているかもしれない。
実際にここで人を殺すには、すぐ近くに民家もあるし、実行するには難しいところがある気もする。
減点対象だ。
やはり最終候補作止まりが妥当だろう。
「着いた着いた。ゴミ一つない。綺麗な川だね」
ほどなくして沢のほとりに辿り着く。
橋の上からそれほど時間はかからなかった。
転石が広がる河原。
透き通った清流が、滔々と下っていく。
「泳いじゃだめですよ、倫太郎さん。川は急に深くなってますから」
「泳がないよ。まだ4月だからね」
隣まで降りてきた長谷川が、足元に転がっていた石を一つ投げる。
水切り。
水面を二度跳ねて、平べったい石は川の底へ消えていった。
「どうです? どこなら埋めるんにちょうどいいですか?」
「うーん、どうだろう。多分この辺かな」
沢の中ほどにある大きな岩。
その周りは水流が渦巻いていて、川底が抉れている。
そこだけ水深が他よりあり、底に物を押し込むような流れと構造になっている。
そんな描写を思い返しながら、僕はなるべく様子が見て取れるように近づいてみる。
「倫太郎さん、気をつけてくださいね」
「うん。大丈夫。ありがと」
つま先が、水に触れる。
深くて暗い川底は、何も見通せない。
沢の中央にある大岩まで、3メートルほどだろうか。
ここからあの大岩に向かって、人を投げ込むのはそれなりに大変そうだ。
かなりの屈強な身体能力が必要になるか、或いはよっぽど遺体が軽量でないと難しい気がする。
実現困難。
描写のディティールからして、実際にこの場所を想定して書いたのだろうが、あの応募作と同じこと行うのは現実的でなさそうだった。
「ここで遺体を水の中に埋めるには、よっぽど力持ちじゃないと難しそうだね」
「ボツ、ですか?」
「まあ、そんなところ」
一応写真を数枚撮って、僕は河原から離れる。
そして元来た道を戻ろうとして、見仰ぐと橋の上に一人の老人が立っているのが見えた。
作務衣姿の白髪の男性が、背中に茶色の籠のようなものを背負いってこちらをじっと眺めている。
「なんかおじいちゃんに見られてるね」
「本当ですね。まあ、この辺じゃうちらみたいな若者は珍しいんやない?」
余所者がうろうろしているのが気になるのか、老人は立ち尽くしたまま僕らを見つめ続けている。
気まずさを感じたが、距離もあるため変に挨拶をすることもできず、見られたまま山道を戻ることしかできない。
「こ、こんにちわ」
「……」
やっと声が届きそうな距離まで近づいて、試しに挨拶をしてみるが、老人は無反応だった。
背負っているのは、どうやら茶葉らしい。
東近江市政所町のお茶は名産品として有名だ。
この付近の茶摘み農家の方だろうか。
「きみは、きゅうやな」
「は?」
すると僕の顔を見て、老人が不意に声を発する。
しわがれた煤けた声だが、聞き取ることはできた。
きゅう。
確かにそう聞こえた。
九。
何を示す数字なのか、わからない。
何かの九番目という意味か。
それとも急とか、そういう意味なのか。
「あの」
「……」
そしてもう僕から興味を失ったのか、老人は視線を逸らして歩き去っていく。
一度としてもうこちらを振り返ることはなく、民家と民家の間にあっという間に姿を消してしまった。
呆然と立ち尽くす僕の隣に追いついた長谷川は、特にあの老人について何も思うことはないのか、そのまま僕を追い抜いて橋の上に戻る。
橋の上から僕を見下ろす彼女の瞳は暗く、特に感情は映っていない。
それはどこか、先ほどの老人の眼差しに似ていた。
ここまでが可能な限り思い返して書き残した、長谷川恵らとの滋賀県東近江市政所町での会話の記録となる。
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