蝿の夜、赦しの朝

馬村 ありん

冤罪者

 カウンターテーブルの向こうから、マスターが揚げたてのフライドポテトを差し出した。ポテトは妻の三咲の大好物だった。胡椒をたっぷりかけてやろうと思った。あの女が嫌っていた辛味たっぷりのポテトを味わってやるんだ――酔っ払った頭で考えた。

 胡椒の瓶をもとめ、テーブルの向こうに手を伸ばすが、届かなかった。超能力でも使って引きよせられたらいいのに。そんな馬鹿なことを考えながら、思い腰を上げた。その矢先のことだった。

 胡椒の瓶がひとりでに宙に浮かび、僕のポテト皿の横におかれた。酒に浸されたまぶたを僕はこすった。いや、ひとりでに宙に浮くわけがない。誰かが取ってくれたのだ。


 隣のスツールに誰かが腰をかけてきた。知らない人物だった。店内の客入りはがら空きとは言わないまでも、まばらだった。日曜の夜だからだろう。座るところはいくらでもあるのに、なぜ僕の隣に座るのか?

 男は、僕の頭ひとつ分は背が低く、ずんぐりした体つきをしていた。ちぢれたパーマのような髪型。無精髭。フレームの厚い眼鏡の奥から光るのは、こちらを抜かりなく観察するまなざし。それは碁石みたいに冷たかった。


「やあ。近藤さん」

 男は言った。確かに僕の名前だった。

「あなたは――」

 誰ですか? そう言いかけたところで思い出した。彼は、最近引っ越してきたばかりの僕の隣人だ。

「峰田です。こうしてお会いするのは初めてですねえ――お隣よろしいですか」

 どうぞ、と僕は言った。


「いやあ、暑いですねえ。まだ六月になったばかりだというのにこの熱気は困りものです。青前町は北の方にあるので、涼しいかなと期待していたんですが」

「ご出身は――」

「東京です」峰田は即答した。「港区に住んでいました」

 港区――そう。あの事件があったのは港区だったな。俺は息を呑んだ。そして、あの惨劇の舞台の中心にいた男こそ――。

 ここで、峰田のビールが運ばれてきた。峰田は一息でそれを飲み干し、おかわりを要求した。

「お強いですね」

「ビールは水のようなものです。何杯でもいけますよ」

 峰田の顔に変わりはない。本人が豪語するとおり、酒豪のようだ。


「そうそう、近藤さんはお仕事は何をされているんです?」

「僕ですか? デザイン会社に勤めています。しがないサラリーマンでね。峰田さんは確か――」

「――画家です。抽象画をやっています。同じ芸術関係ということで我々は相通じるところがありますね」

「そうですね」

 同意した時、濁った水みたいなものが僕の胸の内側に広がっていく感じがした。

「近藤さんは結婚しておられるのですか?」

「今は息子と二人で暮らしています」

 ずいぶん踏み込んだ話をしてくる。友人になりたいのだろうか? スーツの背中にじっとり汗がたまってくるのを僕は感じる。


 こちらが配偶者を尋ねる質問をためらっていると――なぜなら、彼の妻がどうなったかは誰もが知るところだったからだ――峰田は自ら話し始めた。

「こちらにきて私は再婚しました」峰田は言った。「夫婦で新居で暮らしております」

「再婚? 結婚されたので⁉︎」

 声が大きくなっていたと思う。意外に過ぎた。あの事件があってなお、峰田と婚姻関係を結びたがる女性がいたことに驚きを隠せなかったのである。

「そうです」

 口角を上げると、ギャラクシーのスマートフォンの画面を峰田は見せてきた。

 そこには妻と二人で写真に収まる峰田の姿があった。場所はおそらく峰田の新居だろう。妻は美人だった。歳の頃は二十代後半といったところで、峰田より一回りは若い。長い黒髪に、切れ長の目が特徴だった。あわい色のワンピースを身につけ、写真に収まっていた。

 妻の美しさたるや、モデルやタレントと言いたくなるレベルだったが、その顔になにか引っかかるものがあった。あまりに美しすぎるのだ。人形――そういう言葉がふさわしいくらいに。

「美人だ」

 思わず口に出していた。

「ありがとうございます。妻が聞いたら喜びますよ」

 峰田は口元をゆるめた。


「どこでこんな美人と?」

「二年ほど前ですが、とある事件に巻き込まれてしまいました――そのことは近藤さんもご存知かと推察しますが」

 顔に笑いを浮かべたまま峰田は言った。

「存じ上げています。元奥様達の件は、何と申し上げていいか言葉もありません」

「いいえ、お気を使わずに。あの事件ではかなり苦労させられましたが、私の冤罪で終わりましたからね。もう気にしていません。それで、その事件の最中苦しんでいた私を支えてくれたのが妻というわけです」

「どのように出会われたのですか?」

 ほんの一瞬のことだが、峰田はぐっと息を呑んだ。

「友人の紹介です。すぐに仲良くなり、結婚に漕ぎ着けるまで、そうそう時間はかかりませんでした」

 嘘だ、と僕は思った。これまで自信に満ちた態度だった峰田が、この話をしている時は視線を外し、早口でまくしたてたのである。


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