白銀の瞳孔

 財布も定期券も持っていなかったのに、どうやって家に帰ったかすら覚えていない。自分が帰宅したことをやっと自覚したのは、シャワーの水に流される、わずかな血が脚を伝っていくのを眺めている時だった。私は濡れた髪のまま、眼帯を薬局のビニール袋から取り出す。

 実原先輩との再会と別れ、あの空間で起こった全てが現実であることは、玄関を開けるまでずっと握りしめていたこのフィルムロールが証明している。

 ガコン。

 一瞬にして私は、足元も見えぬほどの暗闇に包まれた。部屋を唯一照らしていたランプが、風に棚引くカーテンに押し倒されたのか、と理解する頃には暗さにも目が慣れていた。しかし、窓を開けた覚えはない。月光に照らされる部屋の中を進むと、テーブルの角に足をぶつけてしまう。するとそこに置かれたMDプレイヤーが倒れ、音声が再生される。


「知っとった?人ってな、自分のツバの味とか鼻の中の匂いとか、体温って、自分じゃ分からんらしいねん。せやから誰かが熱出したときにおでことおでこを合わせたりするんやろけど。他人が自分のことどう思うかでころころ自分の色を変えたって、うまく言えへんのやけど、体温の違いが相手との境界になってるから大丈夫っていうか。立花はうちと違ってその辺上手いからな、そんな事してて疲れへん?って思っとる。でもな、そんな能力、本当はいらんのちゃう?うちは父親なんて存在生まれた時から知らんし、色彩休暇のせいでおかんを亡くす前から、うちには紙と鉛筆しかなかった。...…立花は何も悪くないねんで、それは分かっとる。ごめん。誰も悪くない。全部うちが悪いんや。この半年間、復讐の事しか考えとらんかった。結局集めたコインは全部あいつに奪われてしまってんけど。自己満やってん。暴力は何も生み出さないただの自慰やったわ。うちは、立花と一緒にいる時の自分が好きやで。多分、立花が実原さんと一緒にいる時も、おんなじ感じなんやろなって、あの時見ててちょっと思った。どんな代償を払ってでも、一緒にいたい人がおる感覚は、分からん訳でもないしな。その人がいない時間は、自分の想像力でどうにか補うしかない。でもな、そこになんのルールもないと、想像は妄想に変わって、毒になる。依存すればするほど、それは暴力に変わる。でも、だからこそできることもあると思うねん。立花は、現実とフィクションの壁を取り払う力を持っとる。うちは、それを守れれば十分やから」



 新菜の車を走らせる立花。車内に残された新菜の上着を羽織る立花、窓から侵入する雨水を弾いている。車に無理矢理に設置されたカーナビの画面から、ホログラム上のテクノウーパーが現れる。

「ぬぁ。リッカやないか。どしたんこんな時間に。さっきのことまだ怒っとんのか。ニナちゃんも別に悪気があったわけやないやんか、それくらいほんまは分かってんとちゃうん」

「どっから出てきてんのあんた!」

「ニナちゃんのおかんのこと、お前が気負うことないねんで? そりゃたしかに立花の力は特別かもしれへんけど。あの日、色彩休暇は世界中いたるところで起こってんねんから」

「世界中...どういうこと?」

「カラーレス・チャイルドは、お前だけやないっちゅうことや。ニナちゃんが未来見れんの、お前どこかであれは虚言だと思っとったやろ。あいつがお前に何を託したんかわしには分からんけど、DAの発生無しにカラーディメンションに行くには、過去を精算せなあかん。まあお前には、その覚悟はないやろけどな......」

 カーナビから車本体に延びるコードを片手で引き抜く立花。テクノウーパーのホログラムは消失し、画面が消える。



 深夜の高等学校。朽ち果てたプールを眺める立花、なんの躊躇もする素振りもなく、フェンスを越えて侵入する。立花は飛び込み台の上に立ち、水面を覗く。プールいっぱいに張られた水。片目に着けていた眼帯を外すと、片目の橙色は抜けており、両目ともグレーに戻っている。立花は実原から受け取ったフィルムを握りしめ、そのまま力を抜いて水面に落ちる。

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