第九話 清められた姉
甲斐真知の記憶の中で、姉・**由佳(ゆか)**はいつも笑っていた。
小学校のころ、両親の不和が続き、家の中は常に張りつめていた。 でも、姉は明るかった。真知を守る盾のようにふるまい、よく遊んでくれた。 「泣くと損するよ」と、よく言っていた。
だが、姉が高校を卒業し、介護の仕事を始めたころから、空気が変わっていった。
真知が高校一年生だったある日、姉が頬に青あざを作って帰ってきた。 誰に殴られたのかを問うと、姉は静かに笑ってこう言った。
「うちの人、ちょっと不器用なんだよね」
その言葉に、真知はなにも返せなかった。 あの笑顔は、子どもの頃とまったく同じだった。 でも、目が笑っていなかった。
それから、姉は月に一度、また週に一度と、怪我をして帰ってくるようになった。 両親は見て見ぬふりをした。 真知は看護の道を志したが、それは「姉を守る力が欲しかったから」に他ならない。
ある日、姉が病院に運ばれてきた。
肋骨の骨折と内臓損傷。 加害者は“階段から落ちた”と証言したが、明らかに殴打によるものだった。
真知は看護学生だった。 病室で処置を終えた姉のそばで、彼女の冷たい手を握った。
「……ごめんね、真知。 でも、わたし、これでも幸せだったんだよ」
その言葉が、決定的だった。
数日後、加害者は急性心不全で死亡した。 原因不明。 ただ、投薬ミスがあった可能性が示唆されたが、確証はなかった。
その夜、真知は静かに、姉の遺品を整理していた。 そのなかに、小さなノートがあった。
“私は、愛されたかっただけなんだと思う。 暴力のなかに優しさを探すことが、習慣になっていた。 でも、真知は違う。 あなたは、静かな場所にいて。 どうか、自分を保っていてね。”
真知はそのページを閉じて、無言で頷いた。
数年後、真知は病院勤務を始めた。 仕事は真面目で、患者からの評判も良かった。 だが、ある“条件”を満たす人物にだけ、彼女の中でスイッチが入った。
それは──「自分に暴力を正当化している者」。
家族に暴力を振るいながら「仕方なかった」と笑う男。 交際相手に暴力を振るい、再び同じことを繰り返す女。 かつて姉を壊した者と同じ空気をまとった人々。
真知は、そうした人々に“静かな死”を与えていった。
騒ぎもなく、苦痛も与えず。 あくまで、医療ミスにも見える“ほんのわずかな”逸脱で。
彼女の自宅には、5つのガラス瓶がある。 それは、彼女が“清めた”人々の記録であり、贖罪だった。
芽衣。 瑠璃子。 智則。 そして加害者。 あとひとつ。
その最後の瓶には、まだ名前が書かれていない。 ただ──**「私」**とだけ刻まれている。
その夜、真知は久しぶりに姉の墓を訪れた。 雪がうっすらと積もる墓標に、赤い椿の花を供える。
「あとひとり。 それが終わったら、わたし、ちゃんと行くからね」
彼女の声は静かだった。 まるで、誰かに子守唄を聴かせるかのように。
(第十話へ続く)
全二十話:乞うご期待!!
第一話 生き残った探偵
第二話 無人の探偵事務所
第三話 沈んだ窓
第四話 白い部屋
第五話 橋の下の微笑み
第六話 彼女の静けさ
第七話 あるインタビュー記録
第八話 記録という狂気
第九話 清められた姉
第十話 “あの部屋”へ
第十一話 沢渡、目覚める
第十二話 時雨のノート
第十三話 沈黙の密室
第十四話 もうひとりの声
第十五話 消された映像
第十六話 最後の告白
第十七話 交差する記憶
第十八話 祈りの花
第十九話 記録の果て
第二十話 すべてが繋がる日
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます