人はなぜ旅に出るのか
はるか かなた
第1話 波の向こうに仕事を置いて
十二月の終わり、外堀通りを見下ろすオフィスの窓は曇っていた。ガラスに寄りかかると、午後七時のイルミネーションが水彩のように滲んで見えた。川原真理子は、人差し指の爪で曇りを拭いながら「今日も同じ時間に同じ場所だ」と思った。
水道橋にある広告代理店で働いて十年。三十二歳になった今も、彼女は変わらぬ生活を淡々と続けていた。出社は午前九時半、昼はコンビニのパンか社食の定食。午後六時を過ぎると残業が始まり、十時を過ぎて会社を出ることも少なくなかった。帰り道、駅前のドラッグストアで胃薬を買うのが、最近の定番だった。
オフィスの照明はLEDに変わり、明るさだけはやけに近未来的になったが、疲労感は逆に旧式のまま身体に残る。周囲の席からも、キーボードの音がほとんど聞こえなくなっていた。皆それぞれ、沈黙と画面の光に沈んでいた。
「帰ります」と誰かが小さく言った。誰も顔を上げない。真理子はゆっくりと立ち上がり、ロッカーにコートを取りにいった。明日までに直すべき資料がUSBに保存されていて、それを家でやるかどうかを、まだ決めかねていた。
エレベーターのボタンを押すと、少し遅れて扉が開いた。彼女はゆっくりと足を踏み入れた。扉が閉まる瞬間、ふと「このまま閉じ込められても、誰にも気づかれないかも」と思った。自嘲気味な笑いが、喉の奥で空転した。
夜風が冷たく、街はクリスマスの名残を手放しきれないでいた。光と音があふれていたけれど、真理子の胸に刺さったのは、むしろその賑やかさが作る「自分だけが取り残されている」という感覚だった。それでも彼女は駅へと歩き出した。いつものように、耳にイヤホンを差し込んで。音楽が日常の輪郭をなぞってくれる。彼女はそのことを、少しも疑っていなかった。
まだ——その日までは。
出社の朝は、いつも静かに始まる。目覚まし時計がなる前に目が覚めてしまうのは、もう習慣になっていた。真理子は薄く笑いながら、リモコンでカーテンを開けた。窓の外には高層ビルの並ぶ街が淡い朝焼けに染まりつつあり、バス通りには始発の車が滑るように走っていった。
彼女の部屋は港区の分譲マンションの12階。広くはないが、白と木目を基調とした内装が気に入っていた。住みはじめて4年。ちょうど転職して、今の広告代理店に入った頃だった。
仕事は、順調とは言えないが、崩れてもいない。クライアント対応。スケジュール管理。新商品のキャッチ案。チームの調整。すべてそつなくこなす。誰からも評価される。でも、誰も彼女の名前を覚えてはいない。
「川原さんって、なんか、いつもいるよね」
後輩のひとりがこぼした言葉を、彼女は笑って聞き流した。たしかに彼女はいつもいた。最初に来て、最後に帰る。トラブルが起きても、感情的になることはなかった。周囲の歯車が狂いそうなとき、真理子が黙って手を差し伸べ、すべてを元に戻してきた。
けれど──
その歯車が、いま、彼女自身をすり減らしていた。何かを決定的に「失った」というわけではなかった。彼氏と別れたのは去年の秋だったし、仕事で致命的な失敗をした覚えもない。ただ、いつからか、休日が「休息」ではなく「回復」になっていた。 テレビをつけても、音楽を流しても、何も響いてこない。気づけば、コンビニの冷凍弁当とミネラルウォーターで食事をすませ、ベッドの上でスマホを握りしめたまま、夜が終わっていく。
その夜もそうだった。指先の動きだけで、SNSのタイムラインを流し読みしていた真理子の目に、ふと一枚の写真がとまった。真っ青な空と、白い砂の道。水牛が、のんびりと赤瓦の家の前を歩いている。そして、その奥には、どこまでも広がる海。
「竹富島」とタグがつけられていた。心の奥で、何かが「カシャリ」と音を立てて外れたような気がした。指が、勝手に動いていた。飛行機のチケットを検索し、宿を探し、休暇申請の画面を開いた。
翌朝。彼女は、10連休の有給申請を課長の机に静かに置いた。課長は書類に目を落とし、少しだけ眉を上げて、そして言った。
「……たまにはいいんじゃない?」
真理子は、うなずいた。自分がどこかへ行くことで、誰かの業務が狂うかもしれない。だから、今まで一度も長期休暇を取らなかった。でも今は、その「誰か」より、自分自身のことを考えたいと思った。
夜、彼女はベッドの上で、もう一度竹富島の写真を見つめた。
──私は、あそこへ行きたい。
ただそれだけの気持ちが、強く胸の奥に灯っていた。旅に理由は、必要ないのかもしれない。けれど、あえて言うならば。真理子は、自分の「疲れ」がどこから来たのかを、海の向こうで確かめてみたくなったのだった。
休暇申請が通った翌日、真理子は自宅のダイニングテーブルにノートパソコンを広げた。白いコーヒーカップからはまだ湯気が立っていて、その向こうに並ぶタブが彼女の迷いを物語っていた。宮古島、西表島、石垣島──南の島々の画像が、画面の中で同じような色の空と海を揺らしていた。
「どこも綺麗すぎて、現実感がないね」
彼女は小さくつぶやいて、目を細めた。なにか決定打がほしかった。旅の理由に「疲れの回復」と書いたけれど、本当はもっと感覚的ななにか——たとえば、言葉にならない予感とか、風の匂いみたいなものを、内心で求めていたのかもしれない。
そんなときだった。ひとつの動画が偶然再生された。竹富島。音楽はなかった。ただ水牛の蹄が石畳を叩くリズムと、風が木々を抜ける音だけが、静かに流れていた。
画面のなか、細い路地の先に、ひとつの民宿の看板が映った。赤瓦の屋根に、古びた白木の門。小さな風鈴が揺れていて、音は聞こえなかったけれど、きっと澄んだ音がするだろうと思えた。
「やっぱ、ここだ」
真理子は、そう言ってパソコンの前で背筋を伸ばした。クリックひとつで予約を終えると、心のどこかがスッと軽くなった。
旅行会社のパッケージではない。誰にも相談しなかった。友人にさえ、「今度旅行に行くんだ」と言っていない。こんなふうに、自分の意志だけでなにかを決めるのは、いったいいつ以来だっただろう。
空港へのチケットも、乗り継ぎのルートも、細かい計画表もすべて自分で整えた。面倒くさいと思わなかった。むしろ、旅の準備というより「自分の輪郭を確かめる作業」のように思えた。
翌週の火曜日、羽田空港の搭乗ゲート。冬服に包まれた人々のなかで、真理子は白のワンピースにベージュのトレンチコートを羽織っていた。キャリーケースの車輪が、ガラガラと静かな音を立てていた。
初めての沖縄、初めての竹富島、そして何より、初めての「ひとり旅」。でも、不思議と怖くなかった。孤独は、日常に戻ればいくらでもある。ならば旅の孤独のほうが、ずっと健やかで、風通しがいい。
飛行機は雲を抜け、南の空へ向かった。機内で目を閉じると、真理子の胸にぽつんと浮かんだ言葉があった。
——私は、たぶん、どこかへ帰りたくなっているのだ。
けれどその「どこか」は、まだ世界のどこにも地図として存在していない。
旅は、きっと、その場所を探すためにあるのだ。
石垣空港に着いた瞬間、空気が変わった。
東京の冬は、空気が乾いていて、ときおり刃のような風が頬を切る。でも、ここにはそれがなかった。湿気を含んだ風が、肌にまとわりつくように流れてくる。ゆるやかで、なめらかで、それでいてどこか透明な力を感じさせた。
空港から港まではバスに揺られた。窓の外にはサトウキビ畑が広がっていて、その奥には低く雲をかぶった山が見えた。港につくと、竹富島へ向かう高速船が、ちょうど乗船を始めるところだった。
海は、思っていたよりも深い色をしていた。光の加減でターコイズにも見えるし、墨汁を溶かしたような藍色にも見える。乗客は観光客がほとんどで、小さな子どもを連れた家族連れや、カップルの笑い声が船内にちらほらと混じっていた。
「島まで、十数分です」と船内アナウンスが流れる。
その時間だけで、すべての風景が切り替わっていく気がした。
船が竹富島に到着すると、赤瓦の家々と白い砂の道が、まるで用意された絵葉書のように広がっていた。港には送迎のワゴンが並んでいて、彼女の名前を書いた紙を持った中年の女性が立っていた。
「川原さんですね? ようこそ。荷物、こちらでお預かりしますね」
その女性は、宿の女将だった。宿の名前は《ひるぎ屋》。昔ながらの平屋建てで、赤い屋根と白木の壁が、南国の光のなかでくっきりと映えていた。軒下にはシーサーが座り、風鈴が鈴のように鳴っていた。
部屋に案内されると、畳の香りがふわりと立ち上った。四畳半ほどの和室には、窓際に一枚のローテーブルが置かれ、隣に小さなデッキがあった。そこからは、庭を囲む石垣とハイビスカスの花が見えた。
「今日は、あちこーこー(あたたかい)ですね」と女将が笑った。
真理子は、ひとつ深呼吸をした。それは、肺の奥にたまったものをゆっくり吐き出すような呼吸だった。静かな時間が、音もなく彼女の肩に降り積もってきた。
「ご夕食は、七時ごろお持ちしますね。島のもので作ってありますから、ゆっくりなさってください」
女将はそれだけ言って、襖を閉めた。静かだった。どこかで鳥の鳴く声がして、それが風に流される。クーラーもテレビも、今は必要なかった。彼女はスーツケースから本を一冊だけ取り出して、まだ開かずに枕元に置いた。
そのとき、外からふいに水牛の鳴き声が聞こえた。彼女は笑った。心のなかで、声にならない何かが、また少しだけほどけていくようだった。
今はまだ何も考えなくていい。何も決めなくていい。そう思えた。
朝は、波の音で目が覚めた。部屋の窓は少しだけ開いていて、潮の香りが風に乗って入ってきた。時計を見ると、まだ六時を過ぎたばかりだった。東京ではあり得ない時間に、自然に目覚めることができたことが、少しだけ誇らしかった。
宿の庭には朝の光がゆっくりと差し込んでいた。デッキに出ると、まだ誰の足跡もついていない砂利の小道が、石垣の向こうまで伸びていた。鳥の鳴き声が、透明な空気にくっきりと浮かんでいた。
朝食の前に、真理子はひとりで島の中を歩いてみることにした。宿から出てすぐの道は白い砂で覆われていて、歩くたびにサクサクと音がした。その音が、彼女の頭の中から広告コピーの断片やクライアントの顔を、少しずつ追い出してくれるようだった。
郵便局の赤いポストの前を通りすぎ、水牛が曳く観光用の車が、ゆっくりと角を曲がってきた。ガイドの男性が三線を弾きながら「安里屋ユンタ」を歌っていた。どこか懐かしくて、それでいて、自分とはまったく無縁だったはずの音が、すっと胸の奥に入ってきた。
「はいたーい」と、小さな女の子が彼女に手を振った。
真理子も、思わず手を振り返した。東京では、知らない子どもに手を振るなんてことはなかった。でもここでは、それが自然なことのように思えた。
しばらく歩くと、小さな浜辺に出た。観光案内にも載っていない、名前のない浜だった。足元の砂はさらさらとしていて、足を踏みしめるたびに、音が吸い込まれていくようだった。
サンダルを脱ぎ、裸足になって波打ち際を歩いた。冷たくも熱くもない、ちょうどよい水温だった。ひとつの波が寄せては返し、またひとつ、またひとつ。そうしているうちに、彼女の中の“仕事”という単語が、すっかり輪郭を失っていった。
海の向こうには、何もなかった。真っ青な空と、どこまでも広がる水平線だけだった。けれど、彼女にとって、それは“何もない”ということではなかった。“余白がある”ということに思えた。
東京での生活には、余白がなかった。スケジュールは30分刻みで詰まっていて、空白の時間ができれば「何かをしなければ」と焦った。スマホを見て、メールを返して、タスクを埋めて、それで一日が終わっていた。
でも今、彼女の手元にはスマホも資料もない。海と空と、静かな時間だけがあった。
しばらくして、彼女は浜辺に座り込んだ。手で砂をすくい上げると、それはふわりと指の隙間からこぼれていった。まるで、自分の中に溜まっていた疲れが、そこに混じって流れ落ちていくようだった。
遠くから、再び三線の音が聞こえてきた。
真理子は目を閉じた。
そして、何も考えず、ただ波の音に耳を澄ませた。
宿のロビーには、木製の小さな書き机があった。
その上には、色とりどりの絵はがきが何枚か無造作に置かれ、横には使いかけのボールペンが差してある陶器のペン立てがあった。真理子は朝の散歩から戻って汗をぬぐい、水を飲みながら、その絵はがきに目を留めた。
どれも、島の景色を切り取ったものだった。赤瓦の民家と石垣、青い海、満点の星空。けれど、そのなかの一枚だけ、見覚えのある風景があった。
それは、京都・嵐山の渡月橋の写真だった。秋の紅葉が背景にあり、川沿いに灯りがともっている。
「……あれ?」
島の絵はがきのなかに、ひとつだけ“京都”が紛れているのは妙だった。手にとって裏を見ると、誰かが宛名を書きかけてやめたらしい痕跡があった。宛名の上には、薄く消し跡があり、下の方には震えるような字でこう書かれていた。
《いつか、またあの場所で会いましょう。―Y》
Y。イニシャルだけでは誰かわからなかった。だが、その文面には、何か決定的な余韻があった。
「それ、ずっとあそこにあるんですよ」と、宿の女将が声をかけてきた。
「一昨年、絵はがきを書いていた男性がね。たしか、関西の方だったと思います。書いたまま、結局出さずに置いていったの。消すのも忍びなくて、そのままにしてあるのよ」
真理子は「へえ」と言って笑ったけれど、心のどこかが少し引っかかった。赤瓦と石垣の島の中で、あの秋の京都が混じっていることが、不思議な予兆のように感じられた。
彼女はそれらの絵はがきの中から一枚、別のものを選んで手に取った。今度は、自分の手で、誰かに送ってみようと思った。
何を書こう。
数分ほど、ペン先を宙に泳がせたあと、彼女は高校時代の親友に宛てて、こう書いた。
《いま、竹富島にいます。何もない場所だけど、たくさんの音が聞こえる場所。しばらく、ここで、呼吸を整えます。》
書き終えると、彼女は宿のポストにそれを差し入れた。風がゆるく、ロビーの簾(すだれ)を揺らしていた。
もう一度、あの京都の絵はがきに目をやったとき、不意に——
あの“Y”という文字が、どこかで見た筆跡に似ている気がした。
「またあの場所で」——その言葉が、この旅の終わりに、何かを指し示しているように思えた。
その日、真理子は西桟橋のほうへ歩いていた。
宿の女将が「夕焼けは、あそこがいちばん綺麗よ」と教えてくれたからだ。石垣の道を抜け、サトウキビ畑の間を歩いていくと、やがて海に面した細長い桟橋が現れた。潮風は穏やかで、空にはいくつかの雲が浮かんでいた。太陽が沈みかけていて、海と空の境界は薄桃色に染まり始めていた。
桟橋の端には、ベンチがひとつだけあった。そこに、先客がいた。大きなリュックを背負った青年で、白いシャツとベージュの帽子がどこか旅慣れている雰囲気を漂わせていた。ベンチにはあとひとつだけ、空きがある。真理子は一瞬ためらったが、彼の横にそっと腰かけた。
「夕焼け、すごいですね」と声をかけると、彼は驚いたように顔を上げて、すぐに微笑んだ。
「ええ。言葉が出ないくらい綺麗です」
その青年は、旅先でよく出会う“静かな人”だった。多くを語らず、けれど語らずとも何かを伝えてくるような、そんな空気をまとっていた。
「旅ですか?」と彼が聞いた。
「はい、仕事から逃げてきたOLです。そちらは?」
「就活から逃げてきた大学生です」
ふたりは笑った。
「名前、聞いてもいいですか?」
「川原です。川原真理子」
「僕は……新谷光一といいます」
そのとき、風が少し強く吹いて、真理子の髪が乱れた。彼は黙って帽子を押さえ、夕焼けの向こうを見つめていた。
「このあと、どこか行かれるんですか?」と真理子が訊くと、新谷は空を仰いだ。
「次は……京都に寄ろうかと思ってます」
「京都?」
「ええ。祖母が昔住んでいた町があって。嵯峨野ってご存知ですか?」
「ありますね、渡月橋のあたり」
「たぶん、そこです。祖母が若いころに一度だけ行って、そこに残した“何か”があるって聞かされて。実際に何があるかは、わからないんですけどね。ただ……そういう場所、ありますよね。呼ばれるというか」
真理子は、不意に朝のロビーで見た絵はがきのことを思い出した。
「ええ、わかる気がします」
ふたりはそのまま沈黙し、空が色を変えていくのを見ていた。
やがて太陽が沈み、潮の香りが濃くなった。
「そろそろ戻ります」と新谷が立ち上がった。
「また、どこかで会うかもしれませんね」
「そうですね……京都、とか」
彼は笑ってうなずき、静かに手を振った。
その背中が闇に溶けていくのを見届けながら、真理子はまだ微かに赤みを残した海の向こうを見つめた。
どこかで見たことのあるような夕暮れだった。
翌朝、真理子は鳥のさえずりで目を覚ました。カーテンを開けると、東の空がすでに明るみ始めていて、木々の間から漏れる光が、赤瓦の屋根を金色に照らしていた。まだ宿のほとんどの客は眠っているようで、廊下も静まりかえっていた。
彼女は、いつものように無意識のうちにスマートフォンに手を伸ばしたが、その手を途中で止めた。ここ数日、SNSを一度も開いていない。
東京にいた頃は、朝一番にスマホでニュースをチェックし、誰かの投稿にいいねをつけ、自分の存在をうっすらと確認することで一日を始めていた。でもここでは、その必要がない気がしていた。
朝の海を見たくなった。静かに玄関を出て、まだ人の気配のない村の道を抜け、海岸へと向かった。朝の砂浜はひんやりと冷たく、波打ち際には昨夜の名残のように小さな貝殻がいくつも転がっていた。潮の香り。遠くで鳴く鳥の声。波が静かに寄せては返す音。
それだけだった。
彼女は靴を脱ぎ、裸足で波打ち際を歩き始めた。最初はその冷たさに足が縮こまったが、すぐに心地よくなった。水の感触が、まるで失われた時間を取り戻すように、ゆっくりと彼女の皮膚に染みこんでいった。
どれくらい歩いただろうか。ふと立ち止まり、彼女は遠くの水平線を見つめた。
「何も考えない時間」というのが、こんなにも豊かで、必要なものだったのかと気づく。東京では、何かを“しなければならない”という意識にずっと追い立てられていた。時間は常に足りなくて、自分の心はいつも後回しだった。
でもここでは、何もしないことが許されている。いや、むしろ——何もしないことで、ようやく自分が“いる”と感じられるのだ。
潮風が、そっと髪を揺らした。波が彼女の足元を洗っていった。それはまるで「大丈夫」と、誰かが囁いているようだった。
彼女はその場にしゃがみ込み、小さな白い石をひとつ拾い上げた。丸く、すべすべした感触の石だった。ポケットにそっとしまいながら、ふと、胸の奥にあった“硬いかたまり”のようなものが、すこしだけほどけていくのを感じた。
——この旅は、正しかった。
答えが出たわけじゃない。何かを成し遂げたわけでもない。けれど、身体の奥深くに「戻ってこれそうだ」という確かな手応えがあった。
それだけで、十分だった。
午後、真理子は宿のレンタサイクルを借りて、島をぐるりと回ってみることにした。竹富島は小さな島だ。舗装された道のほとんどは赤土で、石垣に囲まれた集落の外れには、ブーゲンビリアが咲き乱れていた。観光マップに載っているビーチや展望台をいくつか巡り、時折立ち止まっては、静かな景色に見入った。
夕方近くなって、彼女は「カイジ浜」と呼ばれる砂浜にたどり着いた。星の砂が取れることで知られる浜辺だ。波が引いたあとの潮だまりに、子どもたちがしゃがみこんで何かを探していた。
「星の砂ってほんとにあるんですか?」と彼女が隣にいた男の子に声をかけると、彼は得意げに白い小瓶を振って見せた。
「あるよ!見て見て!これ!」
中には、小さな星型の白い砂粒が、いくつも光っていた。
「ほんとだ……すごいね」と彼女は笑って言った。
少年の母親らしき女性が、少し離れたところから頭を下げた。真理子も軽く会釈をして、その場をあとにした。そして、帰ろうとしたそのとき——事件は起きた。
自転車をとめていた場所に戻ると、そこには自転車の姿がなかった。最初は自分が置いた場所を間違えたのかと思ったが、どこを探しても見当たらない。観光客が多い時期というわけでもないし、盗難なんてこの島ではほとんど聞かない。
だが、見つからないものは見つからない。彼女はスマホで宿に電話をかけ、事情を話した。
「ああ、もしかしたら、別の観光客の方が間違えて乗っていっちゃったのかもしれませんね。たまにあるんですよ。こっちで探してみますので、浜のところで待っててもらえますか?」
とのんびりとした声が返ってきた。彼女は仕方なく、石垣に腰を下ろした。潮風は少し強くなり、夕暮れが迫っていた。空の色が淡い紫に変わり、海面にきらきらと反射していた。誰かが勝手に自転車を持っていってしまったのかもしれない。けれど、怒る気にもならなかった。
「まあ、こういう日もあるよね……」
独り言のように言って、ため息をひとつ。そこへ、砂浜を駆けてくる人影があった。赤いワンピースにサンダルの女性——その手には、見覚えのある白い自転車。
「すみませんっ! これ、もしかして……」
「はい、それです」
「ですよね! 同じ色のやつを借りてたんですけど、場所を間違えてて……気づいて戻ってきたら、誰もいなくて。ほんとにすみません!」
彼女は、心底申し訳なさそうに頭を下げた。真理子はふっと笑った。
「いいんですよ。ちょっと夕暮れがきれいだったから、こうして待っていられたんですから」
女性はほっと胸をなでおろし、「じゃあ、お詫びにジュースでも」と言って、近くの売店に向かった。
ふたりはしばらく、そのまま海を眺めながら缶ジュースを飲んだ。名前も聞かないまま、しばしの静かな時間を共有した。その別れ際、女性はふとこう言った。
「旅って、不思議ですよね。普段なら出会わない誰かと、こうして同じ夕日を見てる。たった一回でも、思い出になるんだなって」
真理子は、うなずいた。
「ほんとに。……ありがとう、なんだか、忘れたくない時間になりました」
自転車にまたがり、彼女は再び宿へ向かってペダルをこぎ出した。
そのとき、ポケットの中で小さな白い石が転がった。
帰りのフェリーが出る朝、竹富島はまるで名残惜しさを知っているかのように、風を静かにしていた。
川原真理子は宿を出る前、縁側に座って、しばらく庭を眺めていた。赤瓦の屋根に一羽のカラスがとまり、ゆるやかな雲が頭上を流れていった。ふと、部屋に戻り、あの白い小石を取り出した。星の砂のように目立ちはしないけれど、昨日の思いが詰まった、あのカイジ浜で拾った石だった。
旅のあいだ、彼女はいくつかの“音”を聞いた。夜の虫の声、海に寄せる波の反復、風に揺れるシーサーの鈴の音。どれも都会では気にも留めなかったものだが、いまは心に染み入るような静けさだった。耳を澄ませば、自分の中の“本当の声”が、ようやく聞こえてくる気がした。
「ただ、休みたかっただけじゃないよね」と彼女は思った。
あの日、スマホの画面越しに竹富島の写真を見たとき、惹かれたのは景色だけじゃなかった。そこに、“自分が知らない自分”がいる気がした。何も背負っていない、何者でもない時間と空間の中に、自分をいったん置いてみたかったのだ。
フェリーに乗って石垣島へ戻り、そこから空港へ。飛行機の窓から見下ろした海は、信じられないほど青かった。仕事のことも、東京の騒がしさも、あのキーボードの音も、今はもう別世界のもののように感じられた。
けれど彼女は、それらすべてを「忘れたい」とは思わなかった。それはそれで、彼女を形づくってきたものだ。ただ、自分の輪郭が溶けかけていたことに気づけたのが、何よりの収穫だった。
——人はなぜ、旅に出るのか。
その問いに、はっきりとした答えはまだ見つからない。でも、少なくとも彼女は知った。「旅に出ることでしか気づけない疲れ」があるのだと。
そして、「疲れたままの自分」では、見えないものもたくさんあるのだと。
空港に降り立ち、帰りの電車に乗り、ようやく自宅のマンションの前に立ったとき、彼女はドアノブに手をかけて、少しだけ深呼吸をした。中に入ると、窓際に置いた観葉植物が、少ししおれていた。久しぶりに水を与えながら、「私も同じだったかも」とつぶやいた。
次の日、彼女は出社した。変わらぬオフィス、変わらぬ会議室、変わらぬ業務。けれど、何かがほんの少し、変わっていた。それは、「私がいること」を、彼女自身がちゃんと認められたことだった。
その月の末、有給の理由を訊ねてきた後輩に、彼女は笑ってこう言った。
「ちょっと、未来の自分に手紙を届けに行ってきたの」
「え?」
「意味は、まだ自分でもわからないけどね。でも、悪くなかったわよ」
後輩はぽかんとしながらも、どこかうらやましそうに彼女を見ていた。
その夜。
駅からの帰り道、バス通りに並ぶ街路樹の下に、見慣れない人物が立っていた。
カメラをぶら下げた、どこか旅人のような風貌の男だった。目が合うと、彼は静かに会釈した。そして、何も言わずに、一枚のポストカードを差し出してきた。
そこには、あの竹富島の浜辺と、「波の向こうに仕事を置いて」という文字が印刷されていた。
真理子は息をのんだ。
「もしかして……」
と声をかけたときには、彼の姿はすでに人波に消えていた。
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