第13話 コピー



朝の教室に入った瞬間、私は立ちすくんだ。


私の席に、私が座っていた。


いや、違う。それは美月だった。でも、その姿勢、ペンの持ち方、頬杖をつく角度まで、全てが私だった。


「おはよう、優花」


振り向いたのは、親友の真理子だった。彼女は美月に向かって、私の名前を呼んでいた。


「おはよう、真理子」


美月が答える。その声のトーン、語尾の上げ方、全てが私のものだった。いつから練習していたのだろう。いや、練習なんてレベルじゃない。これは完全なコピーだ。


私は声を出そうとした。でも、喉が詰まったように音が出ない。


真理子は私の横を素通りして、美月の隣に座った。まるで私が透明人間になったかのように。


「昨日のインスタ見た? 優花の投稿、すごく素敵だったよ」


インスタ? 私は昨日、何も投稿していない。スマホを取り出して確認する。


そこには確かに私のアカウントで、昨夜11時47分に投稿された写真があった。夜の公園で撮影された、完璧な構図の自撮り。キャプションには詩的な文章が添えられている。


『夜の静寂が教えてくれる。本当の私は、もっと美しくなれるって』


私の文体だ。でも、私じゃない。


教室に次々と生徒が入ってくる。皆、美月を「優花」と呼んでいる。誰も疑問を持たない。


私は別の席に座ろうとした。すると、クラスメイトの亮太が眉をひそめた。


「そこ、美月の席だよ」


美月の席。私は今、美月として認識されている。


鏡のように入れ替わっていた。でも、これは単純な入れ替わりじゃない。美月は私になりきっているのに、私は美月になれない。私は私のまま、ただ「美月」というラベルを貼られただけだ。


授業が始まった。数学の小テストが返却される。


「七瀬さん、今回も満点ね。素晴らしいわ」


担任の声が聞こえる。でも、その視線は美月に向けられていた。美月は謙遜するように微笑む。その表情まで、私のものだった。


私の手元に返されたテスト用紙。そこには「月野美月」と書かれていた。点数は78点。これは私の実力そのものだ。でも、名前が違う。


休み時間、私はトイレに駆け込んだ。鏡を見る。


映っているのは、間違いなく七瀬優花の顔だった。でも、何かが違う。表情? いや、もっと根本的な何かが。


「調子悪い?」


振り向くと、美月が立っていた。心配そうな表情。これも私の真似だ。


「大丈夫よ、美月さん」


美月の口角が、ほんの少し上がった。


「そう。でも、無理しないでね」


彼女は手を洗い始めた。その仕草も私のものだ。石鹸の泡立て方、手首の返し方、タオルで拭く順番まで。


「ねえ」と私は言った。「いつから?」


美月は鏡越しに私を見た。その瞳に映る私は、ひどく小さく見えた。


「いつからって?」


「いつから、私の真似を」


美月は首を傾げた。私がよくやる仕草だ。


「真似? 何の話?」


彼女の表情に偽りは見えなかった。本当に分からないという顔。いや、これも演技なのか。もう区別がつかない。


昼休み、私はいつもの屋上への階段を上った。ここは私だけの場所のはずだった。


でも、扉を開けると、そこには既に人影があった。


美月だった。私がいつも座る場所に、私と同じ姿勢で座っていた。膝を抱えて、少し顎を上げて空を見る。お弁当も私と同じものだった。卵焼きの切り方、プチトマトの配置まで。


「あ、美月さん」


美月が私に気づいて微笑む。


「一緒に食べる?」


私は黙って隣に座った。美月は卵焼きを箸でつまむ。その持ち上げ方、口に運ぶ速度、咀嚼のリズム。全てが私だった。


「美味しい」


その言い方も。


私は自分のお弁当を開けた。中身は母が作ったはずの、いつものお弁当とは違っていた。コンビニのサンドイッチと、ペットボトルのお茶。


「それ、美月さんらしいね」


美月が言う。美月さんらしい。私は今、美月らしいものを食べている。


午後の授業、国語の時間。詩の創作課題が出された。


「では、七瀬さん。あなたの詩を読んでください」


先生は美月を指名した。美月は立ち上がり、ノートを開く。


「『鏡の中の私』」


美月が朗読を始めた。それは、私が先週書いた詩だった。一字一句違わない。でも、美月のノートから読んでいる。


「素晴らしい。さすが七瀬さんね。では次、月野さん」


私の番だった。私はノートを開く。そこには見慣れない文字で、知らない詩が書かれていた。筆跡は私のものなのに、内容に覚えがない。


「『消えていく影』」


読み始めると、言葉が勝手に口から出てきた。


「私の影が薄くなっていく/朝日の中で透けていく/誰かが私の輪郭をなぞり/少しずつ色を塗り替えていく」


これは私の言葉じゃない。でも、私の声で、私の口が動いて、この詩を読んでいる。


「月野さんらしい、内省的な作品ですね」


先生の評価。月野さんらしい。私は今、月野美月らしい詩を読んだ。


放課後、部活の時間。私は美術部に向かった。でも、部室の扉の前で立ち止まる。


中から聞こえてくる声。


「優花、その色の混ぜ方、天才的!」


覗き込むと、美月がキャンバスに向かっていた。筆の持ち方、絵の具の混ぜ方、首を傾げて考える仕草。全て私のものだった。


そして、描いている絵も。


それは私が先週から描き始めた風景画だった。構図も色使いも、私の計画通り。でも、美月が描いている。


「あ、美月さん」


部員の一人が私に気づいた。


「今日は来ないの? そういえば、最近あまり描いてないよね」


私は何も答えられなかった。


美術部を後にして、廊下を歩く。すれ違う生徒たちの視線が、微妙に私を避けていく気がした。いや、避けているんじゃない。認識していないんだ。


職員室の前を通りかかった時、中から声が聞こえてきた。


「七瀬さん、最近さらに優秀になりましたね」


「ええ、まるで理想の生徒です」


「月野さんの方は、少し心配ですが」


月野さん。それは今の私のことだ。


図書室に逃げ込んだ。ここなら一人になれる。本棚の間を歩き、一番奥の席に座る。


ふと、テーブルの上に見慣れたノートがあることに気づいた。私の日記帳だ。なぜここに?


開いてみる。最新のページ。


『今日も完璧な一日だった。朝は6時に起床、ジョギング、朝食、予習。学校では全ての授業に積極的に参加。友達との会話も弾んだ。放課後は部活で新作に取り組む。充実している。私は日々、理想の自分に近づいている』


私の筆跡だった。でも、これは私が書いたものじゃない。私はジョギングなんてしていないし、予習もさぼった。


ページをめくる。昨日、一昨日、先週。全て同じような「完璧な日々」が綴られていた。いつの間にこんなに?


「探してたのよ」


声に振り向くと、美月が立っていた。


「私の日記帳」


美月が手を伸ばしてくる。私の日記帳を「私の」と言った。


「これは...」


「ありがとう、美月さん。なくしたかと思って心配してたの」


美月は日記帳を受け取ると、愛おしそうに抱きしめた。その仕草も、私のものだった。


夕方、家に帰る道。私の足は自然と、いつもの道を選んだ。でも、家の前まで来て気づく。表札が「月野」になっていた。


ここは美月の家だ。


じゃあ、私の家は?


スマホを取り出して、自宅の住所を確認する。地図アプリが示す場所は、ここから三駅離れた場所だった。美月が住んでいたアパートの住所。


電車に乗る。車窓に映る自分の顔を見る。七瀬優花の顔。でも、もう誰も私を優花と呼ばない。


アパートの部屋に入る。殺風景な部屋。美月の私物があるはずだったが、そこにあるのは私の持ち物ばかりだった。でも、配置が違う。まるで他人が並べたように。


机の上に、一冊のノートがあった。開くと、私の筆跡で書かれた文章。


『なりたい自分リスト

・もっと明るく

・もっと積極的に

・もっと完璧に

・もっと愛される存在に』


これは私が書いたものだ。中学の時に。でも、なぜここに?


ページをめくると、そのリストは徐々に具体的になっていった。


『理想の自分の一日』

『理想の自分の話し方』

『理想の自分の表情集』


そして最後のページ。


『理想の自分になるためには、今の自分を消さなければならない』


ベッドに倒れ込む。天井を見上げる。


私は誰?


七瀬優花? それとも月野美月?


もう分からない。


スマホが震える。ラインの通知。送信者は「私」だった。


『今日も一日お疲れさま。明日も頑張ろうね、美月さん』


私は返信しようとして、手が止まった。何て返せばいい? 私は誰として返信すればいい?


窓の外は、もう暗くなっていた。


カーテンを閉めようとして、ふと向かいのマンションを見る。一つの部屋に明かりがついていた。


そこに見えたのは、私の部屋だった。私の机、私のベッド、私のぬいぐるみ。そして、その部屋で勉強している美月の姿。


いや、もう彼女は美月じゃない。


七瀬優花として、私の人生を生きている。


私は、ゆっくりとカーテンを閉めた。


鏡を見る。


映っているのは七瀬優花の顔。でも、これは誰の顔?


「私は誰?」


鏡の中の顔が、答えてくれることはなかった。


その夜、私は夢を見た。


夢の中で、私は透明になっていた。学校を歩いても、誰も私に気づかない。声を出しても、誰にも届かない。


そして、私の席には、私でない私が座っていた。完璧な笑顔で、完璧な受け答えをして、完璧な成績を取る私。


目が覚めた時、枕が濡れていた。


でも、これが夢なのか現実なのか。


もう、分からなかった。


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