完璧な"私"に、乗っ取られた

ソコニ

第1話 朝の教室



朝の教室は、いつもと同じはずだった。


七瀬優花は机に突っ伏したまま、窓から差し込む光を眩しそうに見つめていた。昨夜もまた、インスタグラムを眺めているうちに午前3時を回ってしまった。クラスメイトたちの投稿は、どれも輝いて見えた。楽しそうな写真、お洒落なカフェ、完璧に加工された自撮り。


「おはよう、優花」


親友の真帆が声をかけてきた。優花は慌てて顔を上げる。


「あ、おはよう」


「また夜更かし? 目の下、クマできてるよ」


優花は慌てて鏡を取り出した。確かに、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。ファンデーションで隠したつもりだったのに。


「大丈夫、そんなに目立たないから」


真帆の慰めも、優花の気持ちを軽くはしなかった。教室を見回せば、皆がきちんとした身なりで朝の準備をしている。自分だけが、この空間から浮いているような気がした。


チャイムが鳴り、担任の遠藤が入ってきた。38歳の国語教師で、いつも完璧に整えられた髪と、皺一つない白いシャツが印象的だった。


「おはようございます。今日は特別な発表があります」


遠藤の声には、いつもと違う熱がこもっていた。


「本日より、我が校では『理想の自分プロジェクト』を開始します」


教室がざわめいた。優花も顔を上げる。


「これは、生徒一人一人が自分の理想像を明確にし、それに向かって成長していくプログラムです。単なる自己啓発ではありません。科学的なアプローチで、皆さんの可能性を最大限に引き出します」


遠藤の目が、一瞬優花を捉えた。優花は思わず視線を逸らした。


「そして、もう一つ。今日は転校生を紹介します」


教室のドアが開き、一人の少女が入ってきた。


優花は息を呑んだ。


長い黒髪が風になびき、整った顔立ちに品のある微笑みを浮かべている。制服も完璧に着こなしていて、まるでファッション誌から抜け出してきたかのようだった。


「初めまして、美月です。よろしくお願いします」


声まで、鈴を転がすように美しかった。


教室中の視線が美月に集まる中、なぜか美月の視線は真っ直ぐに優花を捉えていた。優花は思わず身を固くした。


「美月さんは前の学校でも成績優秀で、生徒会長も務めていました。皆さん、仲良くしてください」


遠藤の紹介が終わると、美月は優花の隣の空席に向かって歩いてきた。


「隣、いい?」


優花は頷くしかなかった。美月が席に着くと、かすかに花のような香りが漂ってきた。高そうな香水だ、と優花は思った。


「私、あなたのこと知ってる」


授業が始まってすぐ、美月が小声で囁いた。優花は驚いて美月を見る。


「インスタ、見たことあるの。七瀬優花さんでしょ?」


優花の顔が熱くなった。自分のアカウントなんて、フォロワーも少ないし、投稿も地味なものばかりだ。


「たいした投稿してないけど...」


「そんなことない。素敵だと思う」


美月の瞳が、優花を見つめていた。その視線には、何か探るような光があった。


「でも、もっと素敵になれると思うな」


その言葉に、優花は言いようのない不安を感じた。


午前の授業が終わり、昼休みになった。優花が購買でパンを買って教室に戻ると、自分の席の周りに人だかりができていた。中心には美月がいて、クラスメイトたちと楽しそうに話している。


「優花ちゃん、戻ってきた」


美月が優花を見つけて手を振った。周りの生徒たちも優花に注目する。普段、優花にこんなに注目が集まることはない。


「美月さん、すごいんだよ。前の学校で学年トップだったんだって」


「部活も三つ掛け持ちしてたらしい」


「それに、インスタのフォロワーも5万人いるんだって」


クラスメイトたちの羨望の声を聞きながら、優花は自分の席に座った。美月は優花の方を向いて微笑む。


「優花ちゃんのこと、みんなに聞いてたの。とても優しい人だって」


「そんなことない...」


優花は俯いた。自分なんて、特に取り柄もない平凡な生徒だ。


午後、遠藤の特別授業が始まった。『理想の自分プロジェクト』の詳細説明だという。


「皆さん、自分の理想像を明確に持っていますか?」


遠藤は黒板に大きく『理想の自分』と書いた。


「多くの人は、漠然とした憧れは持っていても、具体的なビジョンを持っていません。このプロジェクトでは、まず自分の理想像を明確化し、そこに到達するための科学的なアプローチを学びます」


優花は手元のノートに目を落とした。理想の自分、か。正直、考えたこともなかった。いや、考えないようにしていたのかもしれない。理想なんて、自分には縁遠いものだと思っていたから。


「まず、このシートに記入してください」


配られたシートには、様々な質問が並んでいた。


『あなたが憧れる人物は?』

『自分の長所と短所は?』

『1年後、どんな自分になっていたい?』

『他人から見られたい自分のイメージは?』


優花はペンを持ったまま、固まってしまった。憧れる人物...美月のような人だろうか。でも、それを書くのは恥ずかしい。


隣を見ると、美月はすらすらと記入していた。その横顔は真剣で、少し怖いくらいだった。


「書けない人は、今の自分を否定することから始めてください」


遠藤の言葉に、優花はびくりとした。


「変化は、現状への不満から生まれます。今の自分に満足していては、成長はありません」


遠藤の目が、また優花を捉えた。まるで、優花の心の中を見透かしているかのようだった。


優花は震える手で、ペンを動かし始めた。


『憧れる人物:クラスで人気のある人』


書いてすぐに消した。こんな答えでは子供っぽい。


『憧れる人物:自信を持って生きている人』


これも違う気がした。結局、優花は空欄のまま次の質問に移った。


放課後、優花が帰り支度をしていると、美月が近づいてきた。


「一緒に帰らない?」


断る理由もなく、優花は頷いた。


校門を出て、二人は並んで歩き始めた。美月の歩き方は、モデルのように優雅だった。すれ違う他校の生徒たちも、美月に注目していた。


「さっきのシート、書けた?」


美月の質問に、優花は首を振った。


「私も最初は書けなかったな」


意外な言葉に、優花は美月を見た。


「嘘。美月さんはすらすら書いてたじゃない」


「今はね。でも、前は違った」


美月の表情が、一瞬陰った。


「私も昔は、自分のことが嫌いだった。何をやっても中途半端で、誰からも注目されない存在だった」


優花には信じられなかった。こんなに完璧な人が、自分と同じような悩みを持っていたなんて。


「でも、変われたんだ」


「どうやって?」


「理想の自分を、作ったの」


美月の言葉に、優花は違和感を覚えた。「なった」ではなく「作った」という表現が、妙に引っかかった。


「優花ちゃんも、変われるよ」


美月が優花の手を取った。その手は、氷のように冷たかった。


「私が、手伝ってあげる」


優花は、美月の瞳を見つめた。そこには、底知れない何かが潜んでいるような気がした。


家に帰ると、母親が夕食の準備をしていた。


「おかえり、優花。今日はどうだった?」


「転校生が来たの」


優花は鞄を置きながら答えた。


「へえ、どんな子?」


「すごく...完璧な人」


母親は手を止めて、優花を見た。


「完璧な人なんて、いないわよ」


「でも、美月さんは本当にすごいの。成績も良くて、可愛くて、みんなからも好かれて」


優花の声には、羨望と諦めが混じっていた。


「優花だって、素敵なところがたくさんあるじゃない」


母親の慰めも、優花の心には届かなかった。


夕食後、優花は自室でスマートフォンを開いた。インスタグラムのアイコンをタップすると、フォロー申請の通知が来ていた。


『mitsuki_ideal』


美月からだった。優花は申請を承認し、美月のプロフィールを見た。


フォロワー5万2千人。投稿された写真は、どれも雑誌のように洗練されていた。カフェでの一枚、図書館での勉強風景、夕焼けをバックにした横顔。全てが計算されたように美しい。


コメント欄には、賞賛の言葉が並んでいた。


『美月ちゃん、今日も可愛い!』

『憧れます』

『完璧すぎる』


優花は、自分のプロフィールを見た。フォロワー127人。最新の投稿は、近所の猫を撮った写真。いいねは23個。


比べること自体が間違っているとわかっていても、優花は惨めな気持ちになった。


ベッドに横になり、天井を見つめる。今日一日で、自分の世界が変わってしまったような気がした。美月という存在が、優花の中の何かを揺さぶっていた。


『理想の自分』


遠藤の言葉が、頭の中で響いている。


理想の自分になれたら、どんな気分だろう。みんなから注目されて、羨ましがられて、自信を持って生きられる。そんな自分を想像してみる。


でも、すぐに現実に引き戻された。鏡に映る自分の顔は、相変わらず平凡で、特徴もない。


スマートフォンが震えた。美月からのメッセージだった。


『今日はありがとう。優花ちゃんと友達になれて嬉しい』


そして、もう一つ。


『明日、放課後時間ある? 優花ちゃんのこと、もっと知りたいな』


優花は返信しようとして、手を止めた。美月と一緒にいると、自分の平凡さがより際立つ。でも、断る勇気もない。


『うん、大丈夫』


送信ボタンを押してから、優花は小さくため息をついた。


夜が更けても、優花は眠れなかった。美月の言葉が頭から離れない。


「理想の自分を、作ったの」


作る、という表現。まるで、今の美月が本当の美月ではないかのような言い方。


優花は身を起こし、もう一度美月のインスタグラムを開いた。よく見ると、投稿は半年前から始まっていた。それ以前の投稿はない。まるで、半年前に美月という人間が生まれたかのように。


一番古い投稿を見てみる。


『新しい私の、始まり』


キャプションはそれだけ。写真は、鏡に映った美月の後ろ姿だった。顔は見えないが、長い黒髪が印象的だった。


コメントはゼロ。いいねも少ない。今の美月からは想像できないほど、地味な投稿だった。


優花は、次の投稿、その次の投稿と順番に見ていった。徐々に写真のクオリティが上がり、美月の表情も自信に満ちていく。まるで、蝶が蛹から羽化していくような変化だった。


3ヶ月前の投稿で、優花は手を止めた。


『過去の自分にさよなら』


写真は、何かを燃やしている様子だった。炎の中に、紙のようなものが見える。よく見ると、それは写真のようだった。誰かの顔が写っているが、炎で判別できない。


優花は、言いようのない恐怖を感じた。過去の自分、とは何だろう。美月は、何を燃やしたのだろう。


時計を見ると、午前2時を回っていた。明日も学校がある。優花はスマートフォンを閉じ、布団に潜り込んだ。


でも、眠りは浅かった。夢の中で、優花は鏡の前に立っていた。鏡に映る自分の顔が、少しずつ変化していく。目が大きくなり、鼻筋が通り、唇が理想的な形になっていく。


気がつくと、鏡の中には美月の顔があった。


「これが、理想の優花よ」


鏡の中の美月が微笑む。優花は叫ぼうとしたが、声が出ない。


目が覚めると、朝日が部屋に差し込んでいた。額には汗がびっしょりと浮かんでいる。


優花は起き上がり、洗面所に向かった。鏡を見る。そこには、いつもと同じ自分の顔があった。平凡で、特徴のない顔。


でも、なぜか違和感があった。まるで、この顔が仮面のように感じられる。本当の自分は、この下に隠れているのではないか。


優花は首を振った。寝不足で、頭がおかしくなっているだけだ。


朝食を済ませ、学校に向かう。通学路の途中で、美月と出会った。


「おはよう、優花ちゃん」


美月は今日も完璧だった。髪は艶やかで、制服には皺一つない。


「おはよう」


優花は自分の制服を見下ろした。少しよれている。髪も、寝癖が残っているかもしれない。


「今日の放課後、楽しみにしてるね」


美月の言葉に、優花は頷いた。何を話すのだろう。何を「知りたい」のだろう。


学校に着くと、クラスの雰囲気がいつもと違っていた。みんな、昨日配られたシートについて話している。


「理想の自分、かあ。難しいよね」


「でも、考えるの楽しくない? なりたい自分を想像するのって」


「美月さんは、もう理想の自分になってるよね」


その言葉を聞いて、優花は美月を見た。美月は微笑んでいたが、その目は笑っていなかった。


遠藤が教室に入ってきた。


「皆さん、シートは記入できましたか? 今日は、それを元にグループワークを行います」


優花は慌てた。結局、シートはほとんど空欄のままだった。


「記入できていない人も、心配いりません。グループで話し合いながら、考えていきましょう」


グループ分けが発表された。優花は美月と同じグループだった。他には、クラスの人気者の涼太と、成績優秀な香織がいた。


「じゃあ、まず一人ずつ、理想の自分について話してください」


遠藤の指示で、グループワークが始まった。


涼太が最初に話し始めた。


「俺は、プロのサッカー選手になりたい。今も頑張ってるけど、もっと上を目指したい」


次は香織。


「私は、医者になりたいです。人を助けられる人間になりたい」


美月の番になった。


「私の理想は...今の自分を、維持することかな」


意外な答えに、グループのメンバーは顔を見合わせた。


「維持?」


「そう。せっかく理想の自分になれたんだから、これを保ちたい」


美月の言葉には、どこか必死さが滲んでいた。


最後は優花の番だった。みんなの視線が集まる。


「私は...」


言葉が出てこない。理想なんて、考えたこともない。いや、考えても無駄だと思っていた。


「まだ、わからない」


正直に答えると、美月が優花の手を握った。


「大丈夫。一緒に見つけよう」


その手は、また氷のように冷たかった。

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