第25話 会わない恋人の結末
春が来た。
私の人生に、新しい季節が訪れようとしている。
合格通知書を手にしたとき、私は一人で静かに涙を流した。憧れの大学の文学部。新しい環境で、新しい自分になれるかもしれない。
「おめでとう、紀子」
母が嬉しそうに私を抱きしめてくれた。父も、珍しく満面の笑みを浮かべている。
「ありがとう」
素直に喜びを表現できるようになった自分に、少し驚いた。あのころの私なら、どんなに嬉しいことがあっても、心の底から喜ぶことができなかっただろう。
自分の容姿を気にして、先へと続く時間も、これまでと同じに流れるとしか思えないままでいただろう。
――卒業式の日。
桜の花びらが舞い散る中、私は高校生活に別れを告げた。この三年間、特に最後の一年は、私にとって大きな転換期だったと思う。
彩音とは、結局最後まで和解することはなかった。クラスが別になって、接点がなくなったのも理由の一つかもしれない。それでも、彼女への恨みは不思議と薄れていた。もしかしたら、彼女も彼女なりの事情があったんだろう。そんな風に思えるようになった。
クラスメイトたちとの別れ際、何人かが私に声をかけてくれた。
「紀子、大学でも頑張ってね」
「元気でね。素敵な小説を書いてね」
「今度、連絡するから」
社交辞令かもしれないけれど、そんな言葉をかけてもらえることが嬉しかった。入学したころは、こんな風に卒業式を迎えられるなんて、考えもしなかった。中学のころのように、一人ぼっちで誰とも話すことなく、校門をくぐるだろうと思っていた。
一人になった教室で、私は窓の外を眺めた。
拓翔も、どこかで卒業式を迎えているのだろうか。新しい道へ向かって歩み始めているのだろうか。友だちや、もしかすると、新しい出会いがあって、素敵な人と卒業のお祝いをしているかもしれない。
「拓翔、卒業おめでとう」
同じ空の下、どこかで今日を迎えている拓翔に、届かないとわかっていても伝えたかった。
*****
大学生活が始まった。
家からは少し遠かったから、一人暮らしを始めた。両親にばかり負担をかけられないと、バイトも始めた。
新しい環境、新しい人たち。最初は不安だったけれど、文学部の仲間たちや、バイト仲間たちは思っていたより気さくで、私は少しずつ馴染んでいくことができた。
あんなにも周りに溶け込めなかった小学生や中学生、高校生のころが嘘のように思える毎日。
人目を避けて道を選んでいた私は、今はもういない。
「神林さんって、小説書くの上手だよね」
創作の授業で、同級生がそう言ってくれた。私が書いた短編小説を読んでの感想だった。
「ありがとう」
自分の作品を褒められるのは、こんなにも嬉しいものなのか。
私の小説には、いつも会うことのない恋人たちが登場する。直接顔を合わせることはないけれど、心と心で繋がっている恋人たち。きっと、あの体験が私の創作の原点になっているのだろう。
夏休み、実家に帰った私は、久しぶりに自分の部屋でゆっくりと過ごしていた。
机の引き出しを整理していると、あのころ拓翔とのやり取りをしていたスマホが出てきた。もう一年以上前のものだ。
『君の書く文章、すごく好きだよ』
『一緒にいると、時間を忘れちゃう』
『紀子となら、ずっと話していられる』
彼の優しい言葉の数々が、今でも鮮明に蘇ってきて私の心を温めてくれる。
でも、もうあのころのような痛みはない。懐かしさと、少しの寂しさ。そして、感謝の気持ち。
拓翔との出会いがなければ、今の私はいなかった。彼との時間が、私に本当の意味での愛を教えてくれた。
会わない恋人。
それは、確かに存在した愛の形だった。
時が過ぎ、大学二年生になった私は、文芸サークルに入った。そこで、一人の男子学生と知り合った。
「神林さんの小説、いつも楽しみにしてるんです」
彼は私の作品を丁寧に読んでくれて、感想を聞かせてくれる。優しくて、誠実な人だった。
「今度、良かったらお茶でもしませんか?」
そう誘われたとき、私は少し迷った。でも、断る理由は見つからなかった。
「はい、お願いします」
初めて、自分から人と会うことを受け入れた瞬間だった。
カフェで向かい合って座りながら、私は不思議な気持ちになった。緊張はしているけれど、あのころのような恐怖はない。
「神林さんって、どんな恋愛小説が好きなんですか?」
「会えない恋人同士の話が好きです」
「へえ、面白そうですね」
彼は興味深そうに私の話を聞いてくれた。
その日の帰り道、私は空を見上げた。
拓翔、私は少しずつ前に進んでいるよ。
まだ、拓翔のことを忘れたわけじゃない。きっと、一生忘れることはないと思う。でも、それでいいんだ。
拓翔との恋は、私に愛することの美しさを教えてくれた。たとえ会うことがなくても、心が通じ合うことの素晴らしさを知ることができた。
それは、私の宝物。
拓翔はもう、誰かと幸せな時間を過ごしているかもしれない。
そして私にも、いつの日か、新しい恋が始まるかもしれない。
そのときは、今度こそ、きちんと相手と向き合っていこうと思う。だけど、拓翔との思い出は、いつまでも私の心の特別な場所に大切にしまっておく。
夜、自分の部屋でノートパソコンに向かう。
今日から新しい小説を書き始めよう。会うことのない恋人たちの物語を。
『会わない恋人』
私はタイトルを書いた。
これは、私と拓翔の物語。誰にも知られることのない、でも確かに存在した愛の記録。
きっと世界には、私たちのような恋人がたくさんいるのだろう。様々な理由で会うことができないけれど、愛し合っている人たち。
そんな人たちに、この物語を届けたい。
会わない恋だって、立派な恋なのだと。
目に見えない絆だって、本物なのだと。
私はキーボードを叩き、入力を始めた。
物語は、一人の醜い少女から始まる。彼女がネットで出会った優しい男性との、美しくて切ない恋の話。
窓の外では、星が静かに輝いている。
拓翔も、どこかで同じ星空を見上げているだろうか。
もしかしたら、拓翔も私のことを思い出してくれているかもしれない。
それだけでいい。ただ、それだけで……。
私たちの恋は終わったけれど、私の愛は続いている。
会わない恋人として。
永遠に。
-完-
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