第五章 蘇我と物部
宴で酒をどんどん飲んでいたのは、刀自古だけではなかった。その隣の列で、真中あたりで大あぐらをかいていたのは、穴穂部皇子と他二人。穴穂部皇子は唾を吐いて言う。
「ケッ、馬子の奴。我を押し置いて何故橘豊日なんかに皇位を渡すのか。」
向かいに座っていた黄色い衣、穴穂部皇子と同じくらいの歳の青年が答えた。
「むしろ皇位になるなら我だろう。そこ、
「真に。
そう答えたのは、神璽の鏡を持っていた泊瀬部皇子であった。
「あぁ、あぁ、あぁ。者共は何故死せる天皇に遣え生ける王につかんのじゃ。」
穴穂部皇子はそう叫んだ。
「おい。飲みすぎやろ。」
「黙れぃ、兄君ぃ。」
泊瀬部皇子の諭しを穴穂部皇子はぶったぎる。
「……必ず皇位についたるさかい、待っとけよう。我が御代こそが、
そう言って杯を掲げ、宅部皇子が重ねた。泊瀬部皇子はそれを複雑そうに見守っていた。
その様子を離れて見ていたのは馬子だ。酔いすぎた刀自古を解放する太媛の隣で、顎に手を置きながら細い目で見ていた。宮中で騒ぎ騒ぐ中、その男だけがただ、静かに。
守屋はゆっくりと頭を上げ、その若き皇子を見た。
「お聞き遊ばされませんでしたか。あの舎人でしたら、しばらく彦人皇子の御付きになるそうです。彦人皇子が、そのように望まれたと。」
「舎人とは。赤檮である。」
あえて名前を避けた守屋を叱るように豊聡耳皇子は言った。
「であれば今宵もここにいよう。」
「いえ。彦人皇子は自らのお宮にてごゆっくり遊ばされております。」
「
豊聡耳皇子は諦めたように手を広げた。
「赤檮の弓は見事やった。奴と会って、あの
まさに純真なまなざしで守屋を見穿つ。守屋は微笑んだまま、それを見返した。
「お伝えしておきます。彼の者は我の誇り高き教え子です。」
そう言ってまた頭を下げた。
「……いちいち。面を上げ、守屋。私にも、またいずれ教えてくれな。」
「喜んで、お教え奉ります。」
「さて、そろそろ行かな。刀自古の奴めが、飲み過ぎて。まったく。」
そう言ってそそくさと宴会場に戻っていった。
「……全く、若い者とは。」
守屋はため息交じりにその背中を目で追うのだった。
「大連、嵐です。」
直後、角から現れ守屋の耳にそう入れたのは中臣勝海だ。守屋は眉間にしわを寄せ、その様子を探るようにして宴会場を遠巻きに眺めていた。
豊聡耳皇子が席に戻ったころに、刀自古は太媛に寄りかかって眠っていた。顔を赤らめて気持ちよさそうに。
「全く、いくら飲んだのやら。」
「このお猪口一つだけですよ。」
そう風の囁き声のように太媛は言った。
「すまんのう。酒を許し過ぎてしもうた。」
「頭をお上げなさってください。この娘も、昼はよく努めましたさかい、娘をどうか、お許しなさってください。たまにはいいでしょう、こういうのも。」
そう言って太媛は優しく刀自古の頭を撫でていた。
磐余に立てられた小さな小屋の中に集まっていたのは、守屋、贄子、馬子、そして彼らが連れる数人の男たちである。まず声を上げたのは守屋であった。
「今宵、そなたに伺いたい思うたのは、都造りにある。そなた、蕃国の神の教えを学ぶべく高麗の者の下へ人を遣わせ、その教えと共に蔵造りの御業を学んだそうだな。それについて、我らにも教え、その御業を以てこの都を造らんことを望むが、いかがか。」
「蕃国の神、という言い方は好まんが、まぁよかろう。
馬子がそう答え、呼ばれた男、馬子よりは髭を生やした長身の男、摩理勢は袋からとある石のような彫刻、いや、陶の彫刻を取り出した。それは、黒い色でつややかであり、筒状のものから波を描くように板がのびる、そんな形をしていた。
「最もはこれであろう。瓦、と言う。何に使うかわかるかのう?」
そう言って馬子が守屋に手渡した。
「……重なるものか。横に、いや縦にも。ほう、屋根かい?」
「よう解るのう。その通り、これを屋根に使う。今の茅葺よりは、雨を弾くはずや。」
守屋の解答に驚きながら馬子は言った。
「よし、ならばそなたに従ってそれぞれ造ろう。
そう守屋が言って紹介された男たちは一人ずつ馬子に礼をした。
「よろしゅうな。こやつは弟の摩理勢。それから、
今度は呼ばれた男たちが守屋に礼をした。
「さぁて、忙しゅうなるで。皆の者、よう務めるように。」
守屋がそう二度手を叩いて、都を造るため人々は動き始めた。
守屋は小屋を出る。山では蝉がざわめく中多くの男たちが半裸になって、鍬で土を削っていた。磐余の水を通すための堀である。
「よぉし、この堀の形を元にして、壁と道を建ててけ。」
「石畳を基にして、木と塗で壁とし、屋根に瓦を設けます。」
守屋と馬子が順にそう述べた。
「摩理勢、贄子。木を切る群を司れ。人を持ってけ。」
守屋がそう言って二人に指示を出した。遅れて小屋を出てきたのは漆部兄弟と賀佗夫だ。
「漆部の二人と賀佗夫は石を運ぶ手はずをしてほしい。」
馬子が三人にそう切り出した。
「でしたら、牛と車を連れて
そう賀佗夫が行って、漆部の二人も頷いた。
「任せたぞ。」
守屋が深く頷き、三人は厩から馬を出して、乗って行った。
まだ太陽が高い。夏場の温かさは、汗で服を濡らした。
「そろそろ、腹減るのう。もうひと踏ん張りか。」
「確かにのう。せや、旧き都の市にでも行くか。」
そう守屋と馬子が鍬を降ろしながら話していたところである。
風上から白装束の綺麗な女が現れた。隣に少し背の低い少女も連れている。
「お努めお疲れ様です。そろそろお腹のなる頃か思いまして。」
「のぉ、太媛。よき所にいらっしゃった。」
馬子は彼女を見て声を上げて出迎えた。
「刀自古郎女まで、わざわざ起こしに。」
守屋も声を上げる。
「飯を持ってきましたよ。ほら、たくさん。食べてください。」
刀自古がそう言うと、彼女らに侍て来た男たちが後ろから現れ、牛の引く車に積んだ沢山の食材を仮出しの机に並べ始めた。
「ほぉ、これは。色とりどりで華やかじゃのう。」
守屋がそう言って並び行く食材を輝いた目で眺める。
「よし、ここは一つ、事止めじゃ。皆の者、水場で手を洗い飯時にするぞよ!」
馬子がそう声を上げ、働いていた男たちは汗を拭って背伸びをした。
水場で滝のように水を浴び、汗を全身洗う者もおり、日の下で水滴が煌めく。冷たい水で手を洗い、水を飲み、ようやっと男たちが席に着いた。
「いただきます!」
守屋が叫んで手を合わせ、おむすびを一つ口に入れた。
「んん、美味いのう。これは誰が結んだのじゃ?」
「刀自古ですよ。この頃、よぅ作ってくれるのです。私も驚くほど美味しいのを作るんですよ。我が娘ながら、誇らしいものです。」
そう言って太媛は刀自古の頭を撫でた。褒められた刀自古も嬉しそうに頬を赤らめた。
日が傾き、空が赤くなるころ。刀自古たちは彼らの仕事を見守っていた。赤尾から牛車に大量の木を乗せて摩理勢と贄子がやってきた。守屋らも参加して、荷下ろしを手伝う。
「よし、今日はこれを降ろして終いにしようか。」
最期の一本を漆部の兄弟が下ろしていたころ、守屋が額の汗を拭いながら言った。
「では、また明くる日、続きをしましょうや。明日の昼には堀も終えるでしょう。」
馬子がそう言って山間に沈みゆく日を眺めた。
守屋は馬をかけさす。贄子と共に大和川沿いに道を走った。眺めは良く、山影に入ったばかりの赤い光に顔を照らされ、木々は揺れ、川辺の葦も蒲も薙いでいた。
「嬉しそうですな、兄上。」
「そりゃ嬉しいさ。」
贄子がぽとりと言葉を落とし、守屋が頷いた。
「我が妹があのようによき母となったのじゃ。嬉しくないわけがない。」
「あの小煩い姉上が。あのように落ち着き払ったよき女になろうとは。」
贄子もそう同情した。朗らかそうにして二人は、日本が夜の闇に溶ける前に去っていった。
一月ほど経った頃。守屋は新たなる天皇や群臣らを連れて磐余へ向かっていた。
「さぁさ、皆の者。この日、お集まりいただきありがたいことです。こちら、ついにお見せに上がることが叶いました。この日より、ここを都と拓き奉ります。」
そう守屋が宣言し、馬の上から手を広げるようにしてその地を指した。
新しい都の中心、天皇が入る内裏となる建物が完成したのだ。赤い木、白塗の壁、石河原に、石垣からなる堀は磐余の池から水が引かれ、美しい都となっていた。
「ほぉ、こんなにも美しい都とは。度々訪ねてはいたが、これほどか。」
橘豊日皇子が声を上げた。その隣を駆けていた豊聡耳皇子も目を丸くする。
「何と、よう造り上げたもんや。やるのう、守屋。」
そう言って豊聡耳皇子は守屋の背中を手で軽くたたいた。
「いいえ、これは馬子のお陰でもあります。これはまさに、水の都である。」
そう言って守屋は謙遜して言った。
「いや、物部の者らもよく働いてくれた。さもなくば、この速さでは叶わなかったろう。」
馬子も笑いながら守屋を讃えた。その二人を後ろから見ていた豊聡耳皇子は、心が温かくなるのを感じていた。それが嬉しくて、馬から駆け出して内裏の門を誰よりも早くくぐった。
内裏の構造は前の都とほとんど変わりない。だから、慣れたように扱うことができた。どこに何があるのかは、豊聡耳皇子も誰よりも知る所だ。しかし、見慣れない場があった。
「馬子、ここは?」
それは、美しい木と建物に囲まれた不思議な空間だった。塀が外の山と隔てるが、玉砂利と石囲いの小さな池の広場。
「庭と言います。見て楽しむものですが、お休まりの時などによいでしょう。」
「ほう、庭というのか!よい場じゃな。いつまでもいたくなる。」
「お褒めに預かり、誉れ高きことであります。」
馬子はそう言って頭を下げた。
「ここへ来たときはここで遊ぼうぞ、
そう言って豊聡耳皇子は両手を広げて、そばにいた二人の少年に声をかけた。
その日は日本も晴れ、暑さもよく、風の通る日であった。門の前に御鏡を置き、いつものように逆が祝詞を取って、天皇が内裏へ入る儀式をする。
「ここから、新たな日本の御代が始まるのです。」
そう言って守屋が高らかに宣言をした。
馬子はその場に居合わせた泊瀬部皇子を見つけ、部屋の陰に入っていった。
うす暗い部屋、外は明るいと言うのに、光は入り込んでいない。そこで泊瀬部皇子と立ち話をしていたのは、馬子である。
「泊瀬部皇子に御話ししとう思っていたのは、次の御代のことであります。まだ考えるには早いですが、祟り病のこともあります。いつ御代が崩れてもおかしくないのです。」
「それをお前が私に言うか。偉くなったもんじゃな。」
少しだけ生えていた顎の髭をいじりながら泊瀬部皇子が唸った。
「いえ。しかし、国を憂えむ心は同じでしょう。」
馬子はそう言っていた。しかし、馬子を睨む目つきを変えずに、泊瀬部皇子が切り出した。
「あぁ、私も思うところがある。今、我が弟、穴穂部皇子が皇位につこうと思っておるのはよく見えている。しかしのう、奴には先を見る力が無い。この今の、迷える世をさらに彷徨わすだけになるのではと危うんでおるんや。これに応えられるのは、恐らくお前だけじゃろ。そう思う故、このような場ではあるが、お前には伝えておく。」
そう言って淡々と説いた。
「ん、それは私もよく思うところです。そこで考えていることがあるのですが。」
馬子がそう言って泊瀬部皇子の耳元まで口を寄せて、囁くように言葉を置いた。
「このままでは、穴穂部皇子が次の皇位になりましょう。それを退けようには彦人皇子のお力を頼ることになりましょうが、彦人皇子は病に弱い故、憂えは続きます。そこで考えていることがあるのですが。」
馬子は表情を一つ変えぬまま、言った。
「穴穂部皇子を退ければ、泊瀬部皇子の御代になりましょう。」
その言葉を聞いて、眉を少し動かした。
「それは、どういうことか?」
「そのままです。彦人皇子は何とかしますが、穴穂部皇子さえ落ちれば。豊聡耳皇子はまだお若いですし、次の御代をお創り遊ばされるのは、泊瀬部皇子しかおりません。」
そう眉一つ変えずに話す馬子の目は、鋭く輝いていた。それはまるで、鏡のように磨き上げた剣の切っ先のように。
泊瀬部皇子は、馬子の心の内に救う、大蛇のような志に、恐怖するのだった。
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