第六章 すれ違う心
午前最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
黒板に向かっていた教師がチョークを置き、起立の号令がかかる。
挨拶が終わると同時にガタガタと椅子の動く音と生徒たちのおしゃべりが始まり、いつものようににぎやかな昼休みが始まる。
教室の隅、窓際の席。
周囲のざわめきをものともせず、机に突っ伏した直人は顔を上げない。
クラスメート達、そして、このクラスを担当する教師達にとって、机の上組んだ腕に頭を乗せて銅像のようにピクリとも動かず眠る直人の姿は、すでに見慣れた光景になっている。
彼が望んだわけではないが、この高校が生んだ地元の英雄の休息を邪魔してはいけないという暗黙の了解が出来上がってしまっていた。
変哲のない高校に突然現れた全国区の選手に周囲もどう扱っていいのか分からないのだろう。
「直人、、、直人、、、」
聞き覚えのある声が遠くでする、、、
背中に小さな暖かな感触があたり、揺すられている。
百合香?
重い瞼を持ち上げ、顔を上げるとそこには百合香が立っていた。
「お弁当、行こ、、、」
いつもの穏やかな微笑み。
けれど、少しだけ眉のあたりが曇って見えた。
「あ、うん、、、もう昼休み?」
「そうだよ。とっくにチャイムは鳴ったよ。ずっと寝てたの?」
「三時間目の途中から、、、いや、四時間目だっけか、、、」
ぼやけた声のまま、直人は立ち上がった。
体が重い。
それもそのはずだ。
放課後には高校の部活、土日にはスイミングクラブのトレーニングをこれまで通りこなしている。
さらに、家に帰ると、夕食を急いで食べ、すぐに家族が寝静まるまで仮眠をとる。
そして、夜中にそっと市営プールに忍び込み、気分の赴くままに水と戯れる。
自ずと睡眠時間は削られていく。
今日も、2限目と3限目の間に家から持ってきた弁当を食べ、そのままぐっすりと眠り込んだ。
廊下を歩くと、窓から明るい陽射しが暖かい。
百合香が一歩前を歩き、直人が半歩後ろからついていく。
手を繋ぐでもなく、特に会話もなかったけれど、それが二人にとっては“自然”だった。
すれ違う同級生達は、仲の良い2人に揶揄いの目を向ける。
下級生達の目には憧憬の色が浮かんでいる。
二人は学内で認められたベストカップルだ。
同学年の生徒たちの中には軽いやっかみを持つ者もいたが、下級生、特に女生徒たちの圧倒的な支持を二人は受けていた。
ぶっきらぼうな顔で歩く直人と軽く微笑を浮かべ歩く百合香。
けれど、百合香の柔らかな表情の奥には、どこかぴんと張り詰めたものが隠されていた。
グラウンドを見下ろす芝の斜面に腰を下ろす。
2人のお昼休みの定位置だ。
陽射しが心地良い。
百合香はお弁当の包みを広げる。
「昨日の夜、あたしが揚げた唐揚げ。衣にアーモンドをまぶしてあるんだ。あと、こっちのオニギリは直人の好きなツナと辛子マヨネーズをあえたので、こっちはいぶりがっことクリームチーズを細かく刻んでご飯に混ぜたオニギリ」
直人は礼を言うでもなく、当然のようにオニギリに右手を伸ばし大口を開けて頬張る。
口をモグモグさせながら、飲み込まないうちに左手で唐揚げを摘まむ。
「おっ、うめっ!これ、美味いよっ!」
直人は上機嫌な声を上げる。
その褒め言葉がいぶりがっことクリームチーズのオニギリに向けられたものか、唐揚げに向けられたものかわからなかったが、直人が本心から美味しいと言っているのは確かだ。
百合香は笑うと子供っぽくなる男らしい顔をそっと見つめ、自分のお弁当箱からサンドイッチを摘む。
朝練をこなす直人は、大体、二限目か、三限目かの休み時間に持参したお弁当を食べ、昼休みは購買部で総菜パンを買っていた。
それならばと、百合香は直人の昼休み用のお弁当を作るようになった。
直人のためにお弁当を考えるのは楽しかった。
最初のうちは凝って作っていたけれど、直人がちまちま箸を動かす色とりどりのお弁当よりも、手軽にさっさと食べられるボリュームのあるお弁当が好きだと言うことに気付き、具にバリエーションをつけた大きめのオニギリに、主菜を一つというパターンが定例化している。
あっという間に百合香が用意したお弁当をたいらげ、直人は大きな欠伸をした。
「直人、、、寝不足なの?」
百合香はさり気なさを装って聞いた。
自分でも少し声が低く、震えてしまったことに気付いている。
が、直人に気にした様子は全くない。
「うーん、寝たはずなんだけどね。最近、寝ても、寝ても寝足りないんだよ、、、」
百合香は、視線を伏せる。
早朝にどこかへ出掛けているからじゃないの、、、?と聞きたかったが、聞けなかった。
朝方に見たにこやかな顔で自転車を漕ぐ直人の姿、、、
自分の知らない時間の直人、、、
思い出しただけで胸が苦しくなる。
百合香が散歩に出たように、直人も目が覚めて朝のサイクリングに出かけたと信じたかった。
けれど信じきれない自分がいる。
寝ても寝ても寝足りないんだよという直人が早朝にサイクリングに出かけるだろうか、、、
誰かと、、、会っていたの、、、?
口に出せない疑問が膨らみ、胸を押し潰しそうになる。
無言の時間に耐えられず、百合香が口を開く。
「ねえ、聞いてほしいことがあるんだ」
「うん?」
「秋に劇団の定期公演があるって言ってたじゃない?その公演でね、私、主役に選ばれたの。佐藤さんが脚本と演出をする『オンディーヌ』ってお芝居ののタイトルロール」
「タイトルロール?、、、それって、主役ってこと?すごいじゃん」
タイトルロールとは、作品のタイトルにもなっている役名のこと。
少数の例外を除き、主役の役名であることが多い。
直人も百合香の影響で演劇の知識はかじっているので、タイトルロールが役者にとって名誉な役であるということは知っていた。
「うん。すごくプレッシャーなんだ。主役の“オンディーヌ”って、純粋な水の精霊なの。元はフランスのジャン=ジロドゥって劇作家の有名戯曲で、それを佐藤さんが現代風に潤色した脚本で上演するのよ。水の精霊と騎士の悲しい恋の物語。人間じゃない水の精霊をどうやって演じればいいか、今からプレッシャーなの」
「水の精霊?」
直人の目が開かれる。
それまでの眠そうな雰囲気は消える。
「そう。水の精霊オンディーヌ。ドイツ語ではウンディーネって言って、4大精霊のうちの一角」
「オンディーヌ、、、四大精霊?」
「そうよ、、、直人、ロールプレイングゲームとかやらないから知らないかもね。“四大元素”って聞いたことない? 昔のヨーロッパの思想で、世界は“火・水・風・土”の四つのエレメントでできてるって考えがあったの。で、それぞれの元素に対応する“精霊”が“四大精霊”って呼ばれる存在」
「へえ、火・水・風・土のエレメントか。で、水のエレメントの精霊がオンディーヌ?」
「そう。女の人の姿で描かれることが多くて、人間に恋をして、自分も人間になりたいって願う存在。でも、愛されなかったら泡になって消えちゃう、、、オンディーヌ、、、ウンディーネの話はちょっと悲恋モノが多いんだ」
「泡?、、、泡になって、、消える?」
直人は真剣な顔になり呟く。
百合香は、その変化にすぐ気づいた。
それまであんなに眠そうだったのに、“オンディーヌ”の話をした途端にスイッチが入ったように反応した。
水泳にしか興味がない彼が、憑かれたような目で百合香の話す話題に興味を示すのは、初めてだったかもしれない。
いつも百合香の話す話題よりも、その話題を話す百合香が愛しいような目で聞く直人が嬉しくもあり、物足りなくもあった。
しかし、“オンディーヌ”に興味を持った直人は、話す百合香を置いてきぼりにしているようで、百合香の中に焦燥が生まれる。
それを押し殺し百合香は続ける。
「うん。儚い存在として描かれることが多いのよ。触れられるけど、抱きしめたら消えちゃいそうな存在っていうか、、、それを演じるって考えただけでどうしていいかわからない、、、」
「水の精霊が女性なのか、、、その精霊が人間に恋をするんだ、、、」
直人は“オンディーヌ”という存在に興味を持っている。
なぜそんなに興味を持つのか分からない。
百合香は、『オンディーヌ』の話を始めたのを後悔し始めている。
切り上げたい。
しかし、それも不自然だ。
だから、心に背いて言葉を紡いでしまう。
「そう、四大精霊はね、ウンディーネ以外は、“火”の精霊、サラマンダー。炎を操って気性が荒いの。“風”がシルフ。透明でふわっとしてて、自由奔放って感じ。“土”がノーム。こっちは地中に住んでて、ちょっと無口で無骨な職人気質って言われたりする」
「まるで性格診断の占いみたいだな、、、」
「まあ、そういうところもあるかも。それぞれの精霊ごとにイメージがはっきりしてるから、ロールプレイングゲームやファンタジー作品にもよく出てくるんだよ」
「で、その“オンディーヌ”、、、ドイツ語で“ウンディーネ”だっけ、その“水の精霊”の性格診断は、どんななの?」
せっかく他の精霊の名を出して話を逸らしたのに、また“オンディーヌ”に戻ってしまった。
百合香は渋々のように答える。
「水の精霊、ウンディーネはね、“恋”とか“変身願望”とか、“人間になりたい”って欲望のイメージ。そこが、ちょっと他の精霊と違うところ」
「へぇ、、、人間になりたいんだ、、、水が、、、」
直人は空を仰ぎながら、ぽつりと呟いた。
「水は人にとって不可欠なものだもんな、、、だから水は人と交わりたいのかもな、、、」
彼らしくない夢想じみた言葉。
百合香はその言葉に、ふと視線を落とす。
「うん。だからオンディーヌには怖いところもあるよ。純粋な故に、静かに見えて、ぜんぶ包み込んで、でも気づいたらその中に飲み込まれてる、、、そういうピュアだけれど、静かな激しさもある“水”の感情を演じるのが、ちょっと、怖い」
静かな風が通り過ぎ、二人の間に小さな沈黙が落ちる。
直人は水泳が好きだ。
それだから、“水の精霊”である“オンディーヌ”に興味を持ってくれたんだ、、、
そう百合香は思い込もうとした。
直人をチラリと見る。
直人は真剣な顔をしてグラウンドを見下ろしている。
水の精霊、、、それは“ヒメ”?
直人は、今まで、❝ヒメ❞の実態に関して考えてもみなかった。
プールの中に潜み、直人が泳げば、ポツポツと現れ、次第に集まり、膨らみ、直人を包み込んでくれる不思議な存在。
“ヒメ”は水の精霊だったのか、、、?!
直人の肌が、市営プールの水が、水の中に泡立つように膨らみ、体の表面を擽り、次第に大きな塊になっていく感覚を思い出す。
思いに耽り始めた直人を引き戻すように百合香は言葉を紡ぐ。
「“オンディーヌ”ってね、純粋で、天真爛漫で、人間のお世話や社交辞令が通じない情熱的な役。演出家の佐藤先生が若い頃に観た大好きな舞台で、いつか自分の手で上演したいと思っていたんだって。君なら出来るって佐藤さんに言われて、嬉しかったんだけど、だんだん不安になってきてるの」
百合香の言葉に熱が入り始める。
人間じゃない透明感と躍動感を求められていること。
昨年の『ハムレット』を観た重鎮プロデューサーが、秋の公演の出来次第で来年の春に行われる演劇祭の候補にしてくれるということ。
高校を卒業したら劇団のオーディションを受けて舞台女優になるという夢が一歩近づくということ。
百合香は真剣に語る。
一方で、直人の頭の中は、水の精霊のことでいっぱいだ。
“ヒメ”は、水の精霊なのか?
確かに、全く迷うことなく自然に直人は❝ヒメ❞という女性を表す言葉でその存在をに話しかけていた。
“ヒメ”は、“オンディーヌ”?
精霊ということは、妖怪とは違うってことだよな、、、、
俺のタイムが縮まったのは、、、水の精霊のおかげ?
“ヒメ”、、、
芝生の上に並んで座る理想のカップル。
しかし、2人の想いは別方向に向いている。
「、、、だから、トレーニングで忙しいのはわかるけど、あたしのセリフの練習にちょっとくらいは付き合ってよね」
百合香が直人に問いかける。
「もちろんんだよ。『オンディーヌ』、、、面白そうな話じゃない」
直人は答える。
「『ハムレット』の時は、全く興味を示さなかったのに、、、」
「だって、あれ、ずっとグダグダ悩んでばっかりの男の話だったじゃん。名作かもしれないけど、退屈だったよ。『オンディーヌ』は“水の精霊”の恋って、どんなのだろうって興味があるよ。本当にいるのかな、、、」
百合香の目に不審そうな色が浮かぶ。
直人の本心を探っているようだ。
「居たらいいよね、、、」
すると、直人は嬉しそうに笑って百合香を見た。
まるで、自分の不安を払拭してくれたかのように、、、
この反応は何?
“水の精霊”の恋のどこに興味を持っているの?
百合香は急に浮かび始めた不安を押し殺すように話し始める。
「『オンディーヌ』はね、悲劇で終わるの。オンディーヌに愛を誓った騎士が、彼女に飽きて他の人を愛してしまうとその騎士は死んでしまって、オンディーヌの記憶も無くなるの、、、」
直人を試すように百合香が良く通る声でゆっくりと話す。
騎士はオンディーヌへの愛を誓いながら他の女に心を移し、破滅した。
直人、あなたは?
まさか、私以外に好きな人が出来た?
そんな問いが言外に含まれているようだ。
潤んだ黒い瞳が直人を見据える。
だが、直人は百合香の意図に気付かない。
浮気を疑われているなど考えもしない。
しかし、百合香の潤んだ瞳がたまらなく愛おしく、共に居る時が永遠に続けばいいと感じていた頃の直人とは異なってきていた。
決して、百合香に飽きが来たというわけではない。
直人の脳裏には、山裾の古びた市営の屋外プールの光景、その水の感触ばかりで満たされている。
練習の時間、トレーニングの時間、そして百合香との時間は、夜、そこに訪れるまでの時間の中の一つにしか過ぎないように思えている。
早く夜中になれ、、、
“ヒメ”と心置きなく泳げる時間になれ、、、
直人は思う。
百合香は、直人が自分との話を通じて自分以外の者を想っていることを直感する。
ホワッとした視線で宙を見る直人の横顔に百合香は思う。
それは、、、誰?
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