第十三章 埃まみれの希望と秒針の音

通用口の扉は、古いものだったが、幸いにも内側の閂は簡素なものだったらしい。杏里は、持っていたヘアピンを扉の隙間に差し込み、悪戦苦闘の末、ようやく小さな音と共に閂が外れる感触を得た。扉が、軋みながら僅かに開く。


「恵子さん、私は行きます。もし……30分経っても私が出てこなかったら、すぐに警察に。絶対に、中には入らないで」


恵子は、蒼白な顔で何度も頷いた。その手は、祈るように固く組まれている。杏里は、彼女に力なく微笑みかけると、音を立てないように扉を押し開き、錆びた迷宮の奥へと滑り込んだ。


倉庫の中は、予想通り薄暗く、埃とカビの匂いが充満していた。天井近くの小さな窓から差し込む僅かな光が、空気中に舞う無数の塵をキラキラと照らし出している。積み上げられた木箱や、シートの被せられた機械らしきものの間を、杏里は猫のように身を屈めて進んだ。


物音が聞こえたのは、倉庫の最も奥まった一角からだった。そこだけが、粗末な電球でぼんやりと照らされている。杏里は、大きな木箱の陰に隠れ、そっとその方向を窺った。


いた。


璃子と、そしておそらく恵子の妹であろう、見知らぬ少女が、壁際に力なく座り込んでいるのが見えた。璃子の髪は乱れ、頬はこけ、いつも輝いていた瞳は虚ろに床の一点を見つめている。その姿は、杏里の胸を鋭く抉った。


二人の周囲には、三人の男が気だるそうにタバコをふかしたり、スマートフォンをいじったりしていた。先日、雑居ビルで見かけた連中も混じっている。彼らの会話が、断片的に杏里の耳に届いた。


「……ったく、いつまでこんなとこにいなきゃなんねーんだよ」

「上の指示だ、仕方ねえだろ。例の『荷物』が動くまで、こいつらは人質みてえなもんだ」

「あのガキども、そろそろ『教育』も終わった頃だろ? さっさと『配達』させりゃいいじゃねえか」


配達。荷物。教育。その言葉の一つ一つが、璃子たちが置かれている劣悪な状況を物語っていた。杏里は、唇を噛み締めた。怒りと恐怖で、全身が震えそうになるのを必死で堪える。


今は、感情的になっている場合ではない。どうすれば、二人を助け出せるか。


見張りは三人。いずれも油断しているように見えるが、いざとなれば何を仕出かすか分からない。璃子と恵子の妹は、衰弱しているように見え、自力で逃げ出すのは困難だろう。


杏里は、ポケットの中のスマートフォンを握りしめた。恵子に連絡を取り、警察を呼んでもらうのが最善策かもしれない。しかし、警察が到着するまでに、どれだけの時間がかかるか。その間に、璃子たちが別の場所へ移されたり、あるいは……。


その時、璃子が不意に顔を上げた。虚ろだったその瞳が、一瞬だけ、杏里の隠れている木箱の方を向いたような気がした。そして、ほんの僅かに、その目が驚きに見開かれたように見えた。


(気づかれた?)


杏里は息を止めた。しかし、璃子はすぐにまた俯いてしまい、男たちも杏里の存在には気づいていないようだった。


(いや、違う。璃子は、私に気づいたんだ)


確信があった。あの屋上で、言葉を交わさずとも互いの感情を読み取れたように、今、璃子は杏里の存在を感じ取ったのだ。そして、その瞳には、絶望だけでなく、ほんの僅かな、埃まみれの希望が宿ったように見えた。


杏里は、決意を固めた。警察を待つ時間はないかもしれない。ならば、自分が動くしかない。


見張りたちの注意をどうにかして逸らし、その隙に二人を連れて逃げ出す。無謀な計画だということは分かっていた。しかし、他に方法は思いつかなかった。


杏里は、周囲を見回し、使えそうなものを探した。足元に転がっていた空き缶。壁に立てかけられた鉄パイプ。どれも、武器と呼ぶにはあまりにも心許ない。


不意に、見張りの一人が立ち上がり、璃子たちの元へ近づいていった。男は、璃子の髪を乱暴に掴むと、何かを詰るように低い声で囁いた。璃子は、抵抗もせず、ただ黙って耐えている。


もう、時間がない。


杏里は、空き缶を拾い上げると、それを思い切り、見張りたちとは反対方向の、倉庫の壁に向かって投げつけた。


カラン、コロン、という甲高い音が、静まり返った倉庫の中に響き渡った。


「なんだ!?」


見張りたちが、一斉に音のした方へ注意を向ける。その隙を逃さず、杏里は木箱の陰から飛び出した。


「璃子!」


杏里の声に、璃子と恵子の妹がハッと顔を上げる。その瞳には、驚きと、信じられないという表情が浮かんでいた。


「こっち!」


杏里は、二人の手を掴むと、通用口へと走り出した。しかし、見張りたちもすぐに状況を察し、怒声と共に追いかけてくる。


「待て、こらぁ!」


背後から迫る足音。心臓が、まるで秒針のように、破裂しそうなリズムを刻んでいる。出口は、まだ遠い。

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