第十一章 デッドエンドの地図と折れたコンパス
夜明け前の薄明るい空の下、杏里のアパートの小さなキッチンには、インスタントコーヒーの湯気だけが頼りなげに立ち昇っていた。杏里と和田恵子は、ほとんど一睡もせずに、昨夜の出来事と、そこから得られた僅かな情報を反芻していた。テーブルの上には、恵子が持っていた雑居ビル周辺の走り書きの地図と、杏里が記憶を頼りに書き出した璃子の言葉の断片が散らばっている。
「『上の連中』……一体、どんな奴らなんだろう」恵子が、疲れ果てた声で呟いた。「妹は、ただ少し羽目を外しすぎただけだったのに。どうしてこんなことに……」
「璃子も……最近、何かに怯えているような時がありました。でも、私には何も言ってくれなかった」
杏里の脳裏に、屋上で見せた璃子の不安げな表情が甦る。あの時、もっと深く踏み込んでいれば、何か変わっていたのだろうか。後悔が、冷たい霧のように心を覆う。
「あの雑居ビルに出入りしていた連中……何か特徴はありましたか?」杏里は、思考を切り替えるように恵子に尋ねた。
「みんな、似たような……どこにでもいるような若者でした。ただ……時々、少し年上の、雰囲気の違う男が出入りしているのを、妹のSNSの隅に写り込んでいるのを見たことがあります。黒っぽい服ばかり着ていて、顔はよく見えなかったけど……」
黒っぽい服の男。それが「上の連中」の一人なのだろうか。あまりにも曖昧な情報だった。
「璃子が言っていたんです。『最近、新しいバイト始めたんだけど、時給が良すぎてちょっと怖いんだよね』って。詳しいことははぐらかしてたけど……もしかしたら、それが『ブツ』と関係してるのかもしれない」
杏里は、璃子が冗談めかして話していた内容を必死に思い返す。そのバイト先がどこなのか、結局聞けずじまいだった。
「『別の場所』……あいつら、どこに移動したんだろう」
恵子は、テーブルの上の地図を睨みつけるように見つめていた。その目には、絶望と、それでも諦めきれないという執念が入り混じっている。
「璃子の友人たち……あのビルにいた連中の中に、誰か、話せそうな人はいませんでしたか?」杏里が尋ねると、恵子は力なく首を振った。
「みんな、同じような目をしていました。妹を心配しているようには……とても見えなかった」
手詰まり、という言葉が、重くのしかかる。折れたコンパスで、出口の見えない迷路を彷徨っているようだ。
ふと、杏里は自分のスマートフォンのメッセージアプリを開いた。璃子との過去のやり取りを、指が震えるのも構わずに遡っていく。他愛のない会話、くだらないスタンプの応酬。その中に、何かヒントはないか。
『最近、駅の向こう側の倉庫街で、面白いグラフィティ見つけたんだよね! 今度杏里も一緒に行こうよ!』
数週間前の、璃子からのメッセージ。その時は、特に気にも留めなかった。けれど、今、その「倉庫街」という言葉が、杏里の頭の中で不吉な光を放った。
「恵子さん、この辺りに、倉庫街ってありますか?」
杏里がスマートフォンの地図アプリを操作しながら尋ねると、恵子はハッとしたように顔を上げた。
「ええ……確か、隣の駅から少し離れたところに。でも、どうして?」
「璃子が、少し前にそんな話をしていて……もしかしたら、あいつらがアジトに使いそうな場所かもしれない」
確証は何もない。ただの勘だ。しかし、今はどんな小さな可能性にも賭けるしかなかった。
二人は、ほとんど反射的に立ち上がっていた。疲労は感じなかった。ただ、早くその場所へ行かなければならないという焦燥感だけが、二人を突き動かしていた。
外は、すっかり明るくなっていた。しかし、都市の喧騒は、まだどこか眠たげで、杏里たちの張り詰めた神経とは対照的だった。電車を乗り継ぎ、目的の駅に着くと、そこは杏里の住むエリアとは明らかに雰囲気の違う、古びた工場や倉庫が立ち並ぶ、寂れた場所だった。
潮の香りが、微かに風に乗って運ばれてくる。璃子が言っていた「面白いグラフィティ」とは、どんなものだったのだろう。そして、その場所に、本当に璃子たちがいるのだろうか。
杏里と恵子は、互いに言葉を交わすことなく、倉庫街の埃っぽい道を歩き始めた。どこまでも続くコンクリートの壁、錆びついたシャッター。その一つ一つが、まるで何かを隠しているかのように、重く口を閉ざしている。
太陽が昇り、影が短くなっていく。時間だけが、無情に過ぎていく。杏里の胸の中で、折れたはずのコンパスの針が、微かに震え始めているのを感じていた。それが希望を指しているのか、それともさらなる絶望を指しているのか、まだ誰にも分からなかった。
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