薄明の侵食
路草藍
第1話 日常
午前5時40分。僕はまだ夜の気配が残る住宅地を歩いていた。やはり今日は空気が冷たい。吐く息が白く、迷って置いてきたマフラーを明日は着けようと密かに決める。40代独身。見送りに出てくる家族もいない一人住まい。この時間に出るのは満員電車の喧騒を避けるためだ。始業前の1時間、馴染みのカフェで淹れたてのコーヒーをゆっくりと味わうのが僕の唯一の贅沢であり、何よりも大切なルーティンだった。
いつも通り、最寄りの駅のホームに降り立つ。ひんやりとした空気が肌を刺す。人影はまばらで、数人の通勤客が点々と立っているだけだ。彼らは皆、僕と同じようにこの早朝の静けさをただ受け入れているようだった。その顔ぶれはいつもと変わらないが、そこに言葉を交わす相手はいない。誰もがスマホを眺めたり、あるいはただじっと前を見つめていたりする。僕も定位置へ立つと、ポケットからスマホを取り出し、SNSの動かないタイムラインをぼんやりと眺めている。そこには僕の関心を引くような出来事は何もなかった。
やがて目的の列車が滑り込んできた。早朝の特急列車。この時間は僕を含めてもせいぜい五人前後しか乗っていない。静かで心地よい空間だ。あるいはそう思い込むしかなかった。僕はいつものように空いた角の席に身を沈める。窓の外はまだ薄暗く、街の明かりがぼんやりと流れていく。それは僕の日常と同じようにただ過ぎ去っていく光景だった。
最初の数駅で乗客は少しずつ増えるが、それでも車両はゆったりとしていて窮屈さは感じない。向かいの席では若い女性がスマホを操作している。その反対側の角には、僕より年配の男性が新聞を広げている。彼らもまた、毎日見かける顔だ。全てが見慣れた日常の風景だった。
僕はいつものようにスマホでニュースサイトをチェックした。「物価高打撃」という見出しを大袈裟だと思いつつ、先日珈琲の値上げを告げた喫茶店のマスターの顔を思い出し、納得する。興味のない芸能ゴシップを読み流しながら、何気なく顔をあげ車両の奥に目をやった時だ。優先席の前に一人の女が立っていた。空席が目立つのに不思議だったが、厚手の汚れた服にフードを被っていたので、ハイキング客だろうと深くは気にしなかった。
だが、次の駅に停車し、ドアが開閉するわずかな間に僕は彼女の姿勢にはっきりとした違和感を覚えた。彼女は吊り革にも掴まっていないのに、電車の揺れに合わせてまるで糸の切れた人形のようにわずかに前傾姿勢で微動だにしない。停車駅で乗り込んできた乗客が体をぶつけてもびくともせず、ただそこに「いる」だけなのだ。
僕は思わず目を擦った。寝不足のせいか、気のせいだろうか。もう一度彼女を見る。やはり、変わらない。フードの奥にわずかに見える顔の輪郭。そこには表情らしきものは一切感じられない。ただ、真っ暗な穴が二つ、こちらを向いているような錯覚に陥った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます