短編 6 腹ぺこヌッコちゃんのお話。(長め)
お腹が空いたなぁ。カリカリなキャットフードは好きだけど、もう飽きたし、お家を飛び出してなにか探しに行こうか。ヌッコはふとそう思い立ちました。
ヌッコは爪でボロボロになったクッションから下りて大きく伸びをします。カプカプと可愛い大欠伸です。そしてふわふわの白い毛を舐めて軽く整え、こしこしと顔を擦ります。高く、淡いピンクの鼻を肉球でぷにぷに。ヌッコのチャームポイントです。
いつもの身だしなみチェックが終わるとパチッと目を開け辺りを見回します。住み慣れた家の中、見つけられた脱出口は二つ。
一つはお母さんが毎日頑張って跨ぎ超えている柵です。ヌッコはいつもリビングでお母さんが外に出ていくのを見るだけでしたが、今日こそ反旗を翻すときかもしれません。
もう一つはベランダにつながる大きな窓です。今日もそこから見える夏の大きな青空にヌッコはいつも憧れていました。
ふむどうしようか、ヌッコは策を巡らせます。
柵は縦じま模様のプラスチック製で爪を立てることはできそうにありません。柵の隙間を抜けるチャレンジは過去にしたことがありますが一度つっかえてしまってから怖くてできません。
思いっきりジャンプをすることも考えましたが、もし失敗してしまったら今日お母さんの帰りを待つのは上品な猫ではなくシワクチャなブルドックになってしまうことでしょう。
…それにとっても痛そう。
しばらく考えて窓から脱出することにしました。怖気付いたわけではありません。その方が自由が近くにあるからです。
とはいえそれも簡単なものではありません、窓には鍵が付いていて、それはお母さんの腰よりほんの少しだけ高い所にあります。ヌッコが縦に四、五匹並んでやっと届く位でしょうか。しっかりと持ち手が上がり切っているのでどうにか届けばいい、というものでもありません。
ヌッコは額を上げ細い目で鍵を睨みつけます。しっぽをピンと立てて、ゆっくりと体中に酸素が回るように探呼吸し、走り出しました。
考えていても仕方がないのです。自由へ踏み出す第一歩。大きなジャンプ。
その目には自由がはっきりと写っています。
そして――
「フニャ!」
顔が窓で潰れてしまいました。鍵には手が届かず頭二つ分くらい下のところにゴツンとぶつかりました。鼻がとても痛いです。目と鼻の高さが同じほどになってしまって、ツンとしていた時の気品はもうありません。とぼとぼとお水を飲みに行きます。
ぬっこぬっこ。可愛い足音です。
この暑さだから、と気を利かせたお母さんが冷たい氷水を用意してお出かけしてくれたのでこれ幸いと鼻を冷やします。
それにしてもお皿に直接氷を入れるだなんて、ヌッコのようにスマートな猫でなければ飲み込んでしまって、何か事故になったりしそうです。お母さんは気配りはできますが、それが的を得ていないことも結構あります。それが可愛いところなんですけれどね。
潰れた鼻もしっかりと冷やし、水でほぐします。そのついでに喉も潤してしまいましょう。そしてしっかりと顔の筋肉に力を入れます。力を入れ過ぎて梅干しみたいになっているのは言ってはいけません。
足の爪でしっかりとフローリングを捉え、『僕こそが世界で一番気高いんだ…!』と心の中でぽつり。意外とこの気概が一番大事だったりします。
一点を見つめて、ぶるぶる!っと顔を振るとポンっと鼻が飛び出してきました。肉球でぷぷにして出来を確かめます。『これなら、気品が出ているね』というように頷きます。
合格だったようですね。
梅干し顔を辞めて美しいヌッコに戻り、また窓のほうを見やります。痛い思いをしたとはいえ自由を諦めた訳ではないのです。
ただ、次こそは気品を損なわずに窓を開けようという気合いがさらにヌッコをかっこよく、凛々しく見せています。とはいえジャンプ以外に鍵に届く術はなさそう。
困ってしまいました。どうすれば窓にぶつかることなく鍵まで手が届くでしょうか。水を入れたお皿の横で胡座をかいて顎をさすります。 少しおでこに皺が寄って、むむむと音が聞こえてきそうです。
ふと、いつだったかに本で出会った猫に似ている気がしてきました。名前はまだない、と言った所でしょうか。人間とはかくも理不尽なものなのか、吾輩は美味い飯を食らいたいだけであるのに…。という声が聞こえてきそうです。
少し、ふざけ過ぎてしまいましたね。ともかくヌッコはあの高い位置にある鍵を開ける術が思いつかず、ただ見上げ、睨むだけでした。睨んで睨んで、それでも答えは出ません。青空を写している目は少しづつ潤んでひげの付け根がしっとり湿ります。
ごろんと床に転がります。家の中にいるのはつまらないけれど、気品を失ってしまうよりはマシです。
それにフローリングは結構冷たくていい気持ちだし。外は太陽の光が降り注いでとても暑そうだし。お水だって汚いでしょう。だからもういいんだ。ぶーぶー。
床に大の字でぺったりお腹をつけてまた窓の方を見やります。…あら?ヌッコは何かに気がつきます。
『椅子がある』
窓のフレームの外側、鍵だけ見ていたら気がつかない位置に小さな四脚の椅子が置いてあります。あそこに乗って後ろ足で立てば、ヌッコの手がちょうど鍵に届くくらいの高さ。
しめしめ。ヌッコの目は再び自由の輝きを反射します。さて、こいつを一体どう動かしてやろうか。もちろん今椅子がある位置からではどう頑張っても鍵には届きません。
駆け足で、ぬこぬこと椅子の下へ向かいます。お母さんはいつもどうやって動かしてるっけ。椅子の脚をカリカリしながら記憶を探ります。
「もー!ぬーちゃん、カリカリしちゃだめっていつも言ってるでしょ?」
そう言いながらいつもお母さんは手で椅子を持って運びます。ぬーちゃんというのはお母さんがつけたあだ名です。
…手で椅子を持って運びます。もちろんヌッコに手は生えていません。胡座をかいて悩むことはできますがヌッコはあくまで猫なのです。可愛くて気高い猫に腕などあろうはずがありません。
なんだ、結局ダメじゃないか。思いっきり力を込めてガリガリと脚を削りました。するとほんの少しだけ椅子が動きます。お?ヌッコは気付きます。手で持てないなら体で押せばいいんだ。
椅子の足にすりすりと頬擦りする要領で首の少し窪んだところを椅子の丸い足に合わせます。そしていい感じのところにきたら脚を曲げて、床に爪を立ててぬぬーっと踏ん張ります。
ずりずり、ずりずり。少しづつ椅子はスライドしていきます。少しづつ床は削れていきます。床が五センチほど犠牲になった所で椅子の角がコツと窓に当たります。足を一本だけ押し続けていたらそうなりますよね。確かにそうだ。ヌッコは今この瞬間も学び続けています。
それでも、まぁ大丈夫だろう。窓に傷は入っていないようですし、試しにもう少しこのまま押してみるとまた少しづつ鍵の方へ近寄っていきます。これでいいや、もうちょっとで鍵のところまでいけるだろうし。またぬぬーっと踏ん張ります。
やっと鍵の下まで辿り着きました。ふぅ、疲れた。肩が痛いです。どこかでタイヤ引きというものを人はすると聞いたことがあります。こんなにきついことをわざわざするなんて、人間は分からないなぁ。
一度のびーっと肩を伸ばします。思ったより肩を酷使していたのでしょうか、なんだかすごく気持ちがいいです。
思う存分伸びをするとひらりと椅子の上に舞い上がります。思った通り、前足が鍵までちょうど届きます。しかも鍵の取っ手というのでしょうか、つまみというのでしょうか。そこまで届くのです。これは、勝ったな。ヌッコはにやりと笑います。
つまみのところに肉球を合わせて力を入れます。グニッ。…すごく、食い込みます。痛いです。それでも、ここまできて逃げるわけにはいきません。猫パンチをする時のように腕を素早く引き寄せます。
少しだけ傾いた鍵。もう少し頑張ればいけそうです。もう一度猫パンチ。さらにもう一度。カコンと軽い音がして鍵が開きました。
「フニャァ」
しっぽがぶんぶん振れています。超ハイテンポなメトロノームみたいでとっても可愛いですね。大きな目もきらきらしていて、ウキウキでルンルンなのがわかります。
ひらりとフローリングに降り立ちます。じく、と肉球が痛みます。鍵のせいでしょうか。少しだけ目を細めて軽く肉球を舐めます。少しだけの不愉快と共に窓のサッシに爪を立て思い切り引き開けました。
初めに感じたのはやわらかい風でした。部屋の空気で冷やされたひげが温かい空気に触れてゆらゆら。日差しは強くヌッコのことを包みこみ、歓迎してくれているように感じました。
恐る恐る外に足を出してみると、ベランダは太陽で焼かれてフライパンのようになっていました。このままだと足裏が焼けてご飯どころではありません。仕方なくヌッコは部屋に戻り、自分の足をお皿の水で濡らします。毛まで濡れてしまいすごく気持ち悪いです。ですが仕方ありません。これも美味しいご飯のためです。
そうしてやっとベランダに出ます。細い塀の上にタッと登って辺りを見回します。どうやらヌッコの住んでいる家は地面より少し高い所にあるようです。そして同じような色をした高い建物が数棟建っています。
ヌッコは団地にある三階のある部屋に住んでいました。そんなことヌッコは知りません。お母さんに飼われて四年間、ずっと外に出ずにお家でごろごろしていたのですから当然です。
とはいえ、ヌッコは気高く可愛い猫なのです。きっと三階分の高さくらい余裕で飛んでしまうに違いありません。
『なんか、高すぎ…こわ…!』
…あら。当てが外れてしまいました。四年間も外に出なかったからでしょうか、あまりの高さに怖がってしまっているようです。ヌッコはその毛を少し逆立て、足を曲げています。そしてよく見たらしっぽが足の間に入り、表情も頼りなさげになっています。目もうるうると水気を含み輝いています。これはこれで可愛いです。
それでもおうちに戻ることはできません。お腹が空いて仕方がないのです。最初は小腹が空いたなぁくらいだったのですが、こんなに動いた今となってはもうぺこぺこ。
とにかく、なにか食べたい。ここまでやったんだから絶対に外にある、まだ食べたことないものが、キャットフードなんて目じゃないくらい美味しいものが食べたい。その食い意地がヌッコを動かします。
首を伸ばしてちら、と下を確認します。高いです。生ぬるい風が地面から手を伸ばし、ヌッコの顔をぬるりと撫でます。足が震えました。毛が逆立ちました。一度目を閉じて深呼吸。そして世界で一番美味しい食べ物を思い浮かべます。
いつも食べているキャットフードはカリカリですが少し風味が悪いです。腐り始めた魚と放置されてしなった野菜をぐしゃっと混ぜ合わせたような味がします。それよりも、もっともっと美味しいものが食べたいのです。
例えば、そう、海の香りが漂う新鮮なお魚。採れたてのみずみずしいお野菜。その匂いを想像しただけでお腹が鳴りそうです。そしてそれらがカリカリだったらもう言うことはありません。カリカリのご飯こそが世界で一番美味しいのだとヌッコは信じています。というかそもそもカリカリなご飯以外食べたことがありません。
カッと目を見開き、ちら、と下を確認します。体の震えは治っていません。けれどヌッコは大空に飛び出します。美味しいご飯のために。
たったの数秒のことでした。ヌッコはくるりと宙返りし、足から柔らかく着地します。本能に従えば難しいことではありません。それでもヌッコは自分でも驚いてしまっているようで、目をまんまるにしてほっぺたを撫でます。鼻を肉球でぷにぷに。そして得意げに鼻を突き上げ、歩き出します。
ここまで来ればもう大丈夫です。家にずっといたのに食べ物を捕まえられるのかって?ふふ、安心してください。ヌッコは小さい頃、ペットショップで元野良の先輩猫に野生でどうやってご飯を食べていくかの話を聞いたことがあるのです。
そのちょっと不良っぽい大きな先輩は店員さんとふわふわの球で遊びながら言いました。
『いいかぁヌッコ。この遊びはな、俺たちの本能と身体を鍛えるためのものなんだぞ。決して人間に遊ばれるためのものじゃあないんだ。』
『そうなんですか?僕それで遊ぶの楽しくてすごく好きなんですけど…。だめなんですか?』
少ししゅんとして答えると先輩はニッと笑いました。
『ヌッコ、気にすんな。楽しむのがわりぃって訳じゃねえんだ。ただな、これはもしお前が野生で生きていくってなった時に必要になるもんを教えてくれるモンでもあるのさ。』
先輩はふわふわにガブリと食らいつき満足げに寝転がります。
『人間がこうやってぴょこぴょこ動かすやつはなぁ、外の飯たちとおんなじ動きようなをするのさ。だからな、お前が万が一捨てられたりして野良でやっていくことになったらな、さっきの俺みたいにぴょこぴょこ動くやつに静かに近づいてがぶり!こうすれば外でもうまい飯をいっぱい食って生きていけるんだ。覚えとけよ』
本当に優しい先輩でした。あの先輩のおかげで美味しいカリカリの捕まえ方を知ったのですから。この作戦のMVPをあげてもいいくらいです。
ぴょこぴょこに静かに近づいてがぶり。心の中でそう唱えながらガサガサと音がする背の高い草むらへと向かいます。
近づいていくと緑の何かが草についているのが見えました。それは草から草へぴょこぴょこと飛び回っています。
『これだ…!』
夢にまでみた極上のカリカリ。それが目の前にいる事実がヌッコの理性を揺らします。もうお腹と背中がくっつきそうになっているんです。
それでも逃げられたらこれまでの全部が台無し。深く静かに呼吸しながらぴょこぴょこに静かに近づきます。
いつの間にか風の音は聞こえなくなり、ささやかに揺れる草と、ぴょこぴょこだけがヌッコの視界を埋め尽くします。一口でがぶりといかなければ逃げられてしまう。じっとぴょこぴょこが油断していそうな時を待ちます。
ふっと強い風が吹きました。
今だ!ヌッコはぴょこぴょこに飛び掛かります。がぶり!ぴょこぴょこを手で押さえるとほぼ同時に口に含みます。
ある団地の一角、公園の隅にある草むらのすぐ前で白い猫が目を見開き、毛を逆立て、腰を大きく上げ、尻尾もピーンと伸ばして固まっています。その草むらは団地の子供たちが虫取り、特にバッタ取りをするときによく集まる所でした。
『なに…これ…!!』
がぶりと噛みついた瞬間、なにかよく分からない汁が鼻の奥までツンと生臭さを運んできます。これまで出会ったことがないけれど、確実に不味いそれは抵抗する間もなく食道を濡らします。気持ちの悪い硬い脚がざらざらした舌に引っかかり、それでも逃げようと必死に口の中を蹂躙します。歯を突き立てた胴の透明な何かは筋っぽく、それが上下してぬるい、生臭い空気を肺の奥まで運びます。その下の体だけは妙に柔らかく、それだけがぴょこぴょこの命の暖かさを伝えています。
「フニャャーーーァァァァ!!!!」
そして、可愛くて可哀想な猫の鳴き声が団地に響き渡ったのでした。 おしまい。
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