第3話 婚約の解消を目論む
『貴方との婚約を解消するわ!』
その一言で良いのだ。即刻ヴェルークと縁を切ろうと、ティナは意気込んだ。
だが、目が覚めた時には、彼は仕事に行くという旨のメモを残して出かけていってしまっていた。何度も戦に巻き込まれて家を焼かれている人々もいたので、家を建て直すのに人手がいるのだ。
ヴェルークは無論、即戦力である。
いくらなんでも仕事の邪魔はできないと堪えて、居間に行ってみれば、机の上にはティナのために朝食が用意されていた。品数も多く、栄養満点であるのは一目でわかる。ヴェルークは狩りが得意で、勘もいいのか山で食料を見つけるのも上手いので、ティナはお腹を空かせたことが無い。しかも、村人たちにもきちんと分配しているので、人々からも感謝されている。
――猫かぶりにも程があるわ……。あなた、殺意しか見せなかったじゃないの。
とても喉を通る気分ではなかったのだが、無駄にしてはいけないと思って食べ、気付いたら完食していた。その事実に気づいたのは、後片付けを終えて、一人椅子に座った時である。
「これは……餌づけというやつじゃないかしらね。懐柔されているわ……」
思わず机に突っ伏して頭を抱えたが、すぐに切り替える。
改めて室内をぐるりと見回せば、二人で暮らし始めてから生活に必要な物は買い揃えてあったが、彼の私物は殆どと言っていい程無かった。もともと身一つでやって来たから荷物は少なかったが、家で暮らすようになっても増やそうとする様子がない。
物欲が無いともいえるし、いつ何があっても簡単に行方を晦ませられる上に、痕跡も殆ど残さないに違いない。
ティナは悶々とした思いを抱えつつ一日を過ごした。そして、夕方になって、ヴェルークはいつもと何ら変らない様子で帰って来た。
「ティナ、ただいま」
いつもなら玄関まで出迎えるティナだったが、居間に留まり、ソファーに座ったまま彼を待った。また抱きしめられたり、キスをされたりするのを避けるためだ。
出迎えがなかったことに、ヴェルークは特に気分を害した様子もなく、にこやかに笑顔を向けてくる。その柔らかな眼差しに、ティナは目を奪われた。
――人違いとしか思えないわ……。
もう頭では状況を理解しているはずなのに、甘ったるい声で自分の名を呼びながらやって来る彼の姿を見ると、驚愕以外の何物でもない。
絶句している間に、ヴェルークはさっさとティナの横に座って、早速腰を抱いてきた。そのまま頭の上にキスをしようとしてきたので、ティナは懸命に押し退けた。が、びくともしない。
「やめて」
「何故だ。一日ぶりに会えたんだぞ? 喜んで何が悪い」
にっこりと笑う男の笑顔に、ティナは頭がくらくらしてきた。
麗しいお顔は結構だが、かつての彼とのあまりの言動の差に眩暈を覚える。
――貴方、頭でも打ったのかしら。私の記憶がまだちょっとおかしいのかしら。
記憶にあるヴェルークは、冷然と笑っていた。獣みたいな獰猛さを秘め、迂闊に近づこうものなら喉元を食いちぎられそうな恐怖すら覚えさせる男だった。
絶望と怒りを秘め、殺意さえも滲ませていた。
決して、こんな小さな村で真面目にほそぼそと働いて生きていく男などではないはずだ。
もしもこれが演技などでは無かったら、私と同じで記憶が無いとしか思えなかったが、狙いすましたように求婚してきたから、絶対に違う。
この男の目的は、別にある。
だが、そうと分かっていて、手をこまねいていれば事態は悪化するに違いない。
まずやるべき事は、この男との婚約を解消する事だ。出来なければ、逃げるしかない。
「あの……聞いて欲しいことがあるのよ」
「愛の告白ならいくらでも」
誰だ、この甘ったるい男は。ティナは心が折れそうになったが、顔には出すまいと堪える。
「実は……他に好きな人が」
「うん?」
「いるわけないわよ⁉」
普通の村娘が婚約解消を申し出る理由としては妥当だと思ったが、ティナは即座に撤回せざるをえなかった。
端正な顔に優しい笑みを浮かべながら、凄まじい殺気を感じたのだ。背後に一瞬だけ怒りの焔を見た気がする。
幻影じゃない。
そして、初めて垣間見せた獰猛な気配に、ティナは確信する。
この男は――私を誰か分かっている。記憶がなかったのは私だけだ。
そうなると、理由をつけて説き伏せるのは困難だ。もう逃げるしかないだろう。
ティナはそう胸に秘め、絡みつく彼の腕を解くと立ち上がった。
「お風呂に入ってくるわ……」
今日一日を何とかやり過ごして、明日彼が仕事に出たら、家を出よう。次にいつゆっくりと風呂に入れるか分からないから、念入りに身体を洗おうと思ったが、ヴェルークが立ち上がって、当然のようについてきた。
「俺も行く」
「一緒に入らないわよ⁉」
「でも、俺が洗ってやらないと髪が痛むぞ。お前は扱いが雑過ぎる」
ティナは結婚式のために、髪を伸ばしていた。今では腰ほどまで伸びたのだが、長すぎて管理が大変だ。彼が丁寧に洗って手入れも欠かさないから、つやつやなのだ。
今更ながらに、どれだけ彼に面倒を見られていたか理解する。ああ、自分を殴りたい。
「け、結構よ!」
「却下だ」
「何様のつもりかしら」
きっぱりと返すと、男の目が笑った。今までのような優しいものではない。眼光は鋭く、それでいて心底この状況を楽しんでいるものだ。
――え。何を喜んでいるのよ。
もっと、嫌な予感がした。色々と間違えた気もした。
今日もう既に逃げておくべきだったんじゃないだろうか。
素知らぬ振りをして扉を開けて出ていこうとすると、背後からすさまじい勢いで手が伸びてきて、扉が閉ざされた。ティナは冷や汗が止まらなくなったが、ヴェルークは後ろから耳元で冷然とした声で囁いた。
「記憶が戻ったな、お姫様?」
「ひいっ」
ティナの顔から血の気が引いた。
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