「先に温泉入って来てもいいぞ」

 鼎は向かい合って座るにみむろに話かける。二人は温泉旅館玉井荘おんせゆりょかんたまいそう広縁ひろえんに置かれた椅子に座っている。いわゆる謎のスペースだ。

 玉井荘は老舗の温泉旅館で、多客期は予約を取るのも一苦労な旅館なのだが、このところの暑さで客足が遠のいている様だ。おかげで見張りにもってこいの部屋を押さえられた。

「張り込みなのに、温泉とか入ってていいの?嬉しいけどさせっかく来たんだし……これだけ暑いと嬉しさ半減だけど」

 みむろの顔に疑問符が浮かぶ。それはそうだ張り込みするのに現場を離れろと指示する人は普通はいない。張り込み名目でのお泊まりデートなのでは?ともみむろは思ったが、無いなと思い直す。その気があったら家庭教師をしていた頃に何かアクションがあったはずだ。

「今はまだ大丈夫なんだ。それより普段ちゃんと食べてるか?また痩せたみたいだが」

 みむろには食欲と言うものが殆ど存在しない。何かに夢中になると食事をすぐに忘れてしまう。

 以前、鼎が行なった生活改善で随分と健康状態が改善したのだがどうも放おっておくと元の木阿弥になる様だ。

 このところ連日最高気温が三十五度を超える猛暑、いや酷暑日が続いている。本日などそろそろ午後八時だというのに未だに気温は三十度を超えていた。 この気候で痩せるなと言うのも酷かもしれないが……。

「どうせ依頼人が帰るまでは絶対に浮気相手は来ないんだ。ゆっくり入って来いよ」

 鼎は望遠レンズのついたカメラをガラストップのテーブルの上に置く。

 今回の依頼人は地方では有力な建設会社である株式会社あずまの社長夫人、東鶴久乃あずまつるひさのだ。今年で四十二歳になる久乃だが、素地が良いのかそれとも手入れがしっかりしているのか精々三十代前半にしか見えなかった。

 依頼内容はまあ有りがちと言って良いだろう、彼女の夫である東鶴貴史あずまつるたかふみへの浮気調査だ。

「依頼人の話では浮気相手が会社に現れるのは深夜になってからだ。みむろ。温泉、今のうちに堪能たんのうしとかないと入りそびれるぞ。……おっと依頼人が帰宅、と」

 鼎はあずまの駐車場から依頼人のBMW が発進するのを認めるとカメラのファインダーに収める。

「今日は幸矢ゆきや君も乗っているな。夕食を一緒に食べたのか……」

 幸矢君とは東鶴夫妻の一人息子だ。

「見せて」

 みむろも望遠カメラを覗く。

「二人だね、へえあの女の人が依頼人」

 今回の依頼は株式会社あずまを見下ろせる場所に建つ温泉宿玉井荘の宿泊費用は依頼人持ちだ。この空調の効いた旅館からの張り込みは酷暑の中、屋外で張り込みをする事と比べれば天国と地獄だった。

 ターゲットが現れるかどうかは運もあるが『張り込んでいた』という活動実績は残しておかないと後々、依頼人とトラブルになる。特に旅館の宿泊費用を返せと言われたらかなわない。

「深夜に愛人が来るなんておかしくない?しかも会社に寝泊まりするなんて浮気を隠す気が全くないみたい……」

 みむろは畳の膝立ちになり着替えや化粧品を準備しながら鼎に質問する。

「こら、みむろ。浴衣は駄目だぞ。ターゲットが現れたとき困るだろうが」

「あぁ、そっか……残念。みむろちゃんの浴衣姿を見られる機会を逃したね。鼎君は」

 「よっ」と立ち上がるみむろ。多少ババ臭いが単に筋力不足なのだろう。

「誰が……」お前みたいな子供の、と言いかけて、そう言えば成人したんだっけと言葉を飲み込む鼎。

「俺を誘惑したかったらもう少し肉をつけろ」

「私を太らせて食べる気」

「俺はヘンゼルとグレーテルの魔女かよ。そんなに気長じゃないぞ」

 どっちの意味だ。すぐに手を出すぞと言う意味にもとれる。

「ふうーん、まあいいや」

 みむろは考えても仕方が無い。今日は仕事だ。と気分を切り替えた。

 鼎としては日を跨ぐ張り込みを一人でするわけにもいかず、アルバイトを雇うなら旅館に宿泊しても怪しまれない女性が良い。だからといって休憩用にもう一部屋宿の部屋を確保すると赤字になる。苦肉の策として鼎が考えたのが従兄弟のみむろをアルバイトに雇う事だった。

「ターゲットは不眠症のうえにひどい暑がりで、睡眠薬を飲んでクーラーをガンガンに効かさないと眠れないそうだ。依頼人の久乃さんと長女の過子さんが寒がるから会社で寝泊まりをするようになったらしい。ただ……夜中に目が覚めるとたぎるのか女を呼んでいる様だな……依頼人の話では、時々深夜に会社の灯りがついているらしいぞ」

 鼎は依頼人からの情報をまとめた手帳を開く。東鶴貴史、五十一歳。不況の折先代が傾けた株式会社あずまを多角的経営で立て直したやり手の経営者だ。浅黒い肌にオールバックの髪レンズ越しでも欲望に忠実なギラついた感じが見て取れる。

「ふ〜ん。じゃあ浮気相手が誰かは分かってないんだ」

「だな。まあ依頼人は薄々感づいているかもしれんがな」

 鼎は冷蔵庫を開け中のビールを恨めしそうに眺めている。流石に仕事中は酒を飲まないくらいの常識はある。

「もう、今日は私と一緒、飲まない」

 みむろは両腕でバツ印を作ると後ろを向きスリッパを引っ掛け部屋の外に出たのだった。

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