練習S.S.
きょしょー
失われた時間
鏑木遥人は重い瞼を開けた。枕元のスマホを掴み、画面を覗く。5月31日。有給消化の最終日だった。明日からはもう会社員ではない。製造業の工場で過酷な労働に耐えてきた日々を思い返し、遥人はため息をついた。3トンタンクを一日中洗い続ける作業は、身体以上に精神を削っていた。
「俺の有給どこ行った?」
ベッドから起き上がり、鏡の前に立つ。伸び放題の髭と、隈が深く刻まれた自分の顔が映る。退職後、有給休暇を取った一ヶ月の間、何をしたのか思い出せないほど時間は無為に流れていた。自己嫌悪に浸るのはもううんざりだった。
重い足取りで部屋の片付けを始めると、クローゼットの奥に古い段ボール箱があることに気づく。引っ張り出して開けてみると、大学時代に使っていたノートパソコンとハードディスクが姿を現した。
懐かしさに誘われて電源を入れると、古い起動画面が現れる。デスクトップには当時夢中になっていたAIで生成したイラスト作品が並んでいた。遥人の胸に、かつての情熱がじわりと蘇ってきた。
大学時代、遥人はAIによる画像生成に没頭し、複数のコンテストで入賞した経験があった。しかし、卒業と同時に現実を直視し、安定を求めて製造業の現場に飛び込んだのだった。
遥人は一つ一つの作品を丁寧に見ていった。稚拙さもあったが、当時の自分が持っていた情熱や夢を鮮明に感じた。その時、スマホが震えた。大学時代の友人、高瀬からのメッセージだった。
高瀬は大学卒業後にフリーのイラストレーターとなり、着実にキャリアを築いていた。遥人はためらいながらも返信を送り、久しぶりに会う約束を取り付けた。
数日後、二人はカフェで再会した。変わらない高瀬の朗らかな笑顔に、遥人は少し安堵した。
「遥人、会社辞めたって聞いたけど、本当に大丈夫?」
高瀬の問いに遥人は曖昧に頷く。
「なんとなく辞めたくなってさ。でも、この先どうしようかって、正直迷ってる」
高瀬は頷きながら話を続けた。
「実は最近、同人サークルを作ろうとしててさ。AIを使った新しい作品を考えてるんだ。遥人も参加してみないか?昔のお前の作品、俺はずっと評価してたんだぜ」
遥人は自信がないという素振りを見せたが、高瀬の情熱的な話に次第に引き込まれていった。帰宅後、遥人は久々にAI生成ソフトを起動させた。
夜遅くまで制作を続け、画面にはかつて以上のクオリティを持つ作品が並んでいた。胸の奥で何かが燃え上がるのを遥人は感じていた。
翌朝、遥人は早起きし、身だしなみを整えて外に出た。町は新緑が眩しく、季節は確実に進んでいる。新しいスタートを切る準備を整え、遥人は高瀬に連絡を入れた。
「高瀬、俺もサークルに参加させてくれ」
高瀬の喜びに満ちた返信を見て、遥人は改めて決意を固めた。もう二度と、時間を無駄にしないと。
それからの遥人は、毎日が充実していた。AIの技術を磨き、制作に没頭した。やがて同人イベントへの出展が決まり、多くの人に作品を見てもらえることになった。
イベント当日、多くの人が遥人たちのブースを訪れ、作品を楽しんでくれた。遥人は、その光景を見て自分の選択が正しかったことを確信した。
イベントの終了後、遥人と高瀬は会場を出て歩きながら、次の展望を語り合った。
「これからはもっと積極的に活動していこう」
高瀬の言葉に遥人は強く頷いた。
「俺も、ずっと逃げてきたけど、やっと自分のやりたいことが分かったよ」
夜空を見上げると星がきらめいている。遥人は深く息を吸い込み、新しい一歩を踏み出した。
失われた時間は、決して無駄ではなかった。遥人にとって、それは必要な時間だったのだ。これから遥人は、過去の後悔に囚われず、自分の未来を切り開いていくのだ。
遥人の新たな物語が、ここから始まる。
【終】
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