第6話 ロゼリーヌの涙は誰のため


朝のはずなのに、目覚めたときにはドレスを着ていた。


 フリル。コルセット。細かすぎるレース。

 鏡を見れば、そこには完璧な淑女の姿――ユリエール・サクマリア。


「また、時間のルールが無視されてる……」


 ため息をつきながら鏡の前で整髪料を手に取る。もう何日目だろう、こうして“どの時間に起きても、どの人格であっても”驚かなくなったのは。


 女神ミルミルの言葉が脳裏に浮かぶ。


「三世界が統合に向かうってことは、“時間の分離”も崩れてくってことだよ~」


 あまりにも他人事だったが、事実だった。


 勇者の剣を握っても、悪役令嬢の高笑いが出そうになり、

 筋トレを始めれば、つい紅茶の味を思い出す。


 三人の人格が、曖昧に重なり始めている。


「ユリエールさま、お目覚めですね」


 ノエルがドアを開けて入ってくる。

 相変わらず整った身なりと、端正な口調。だが――その瞳には、わずかな戸惑いがあった。


「……何か、気づいてる?」


「はい。正直に申し上げてよろしいでしょうか?」


「どうぞ」


「今朝のあなたは……いつもの“ユリエールさま”ではない気がいたします」


 やはり、バレてる。


 この世界の補正も、そろそろ限界が近い。

 登場人物たちが、俺の“本当の姿”に気づき始めている。


「でも、だからこそ――確かめたいのです」


 ノエルは、俺の手をそっと取って言った。


「“あなた”は、いったい誰を選ぶのか。誰のために、この世界を生きるのか」


 ロゼリーヌ学園の校庭は、春の陽気に包まれていた。


 芝はよく手入れされ、噴水はきらきらと水を弾いている。

 けれどその景色の中に、見慣れぬ顔が混じっていた。


「……リゼ?」


 そこにいたのは、勇者世界の仲間――ツンデレ剣士リゼだった。


 フリルの制服姿で、完全に“ここの住人”として存在している。


「な、なんで私がこんな格好してるのよ!? ここ、あの世界と違いすぎるし、ていうかこの胸元のリボンデカすぎ!!」


 本人は大混乱していた。だが、俺は察していた。


(いよいよ、本格的に“世界の融合”が始まってる……)


 リゼの隣には、さらに見慣れた顔があった。


「……王子レオン」


「おお、ユリエール嬢。貴女の熱意に胸を打たれ、こちらの世界でも“男らしさ”を追求しておるぞ」


 まさかのロゼリーヌ学園で筋トレ部を設立していた。この人、ぶれないなほんとに。


「お前、この世界じゃ筋肉流行ってないぞ?」


「いや、最近は“心の筋力”が重視されると聞いた」


「それ誰情報だよ」


 そして、自分の喉から出たのが、次のセリフだった。


「やぁやぁ、ロゼリーヌの乙女たちよ! 今日も笑顔と血管美で登校だァァアア!!」


 ――その瞬間、周囲の空気が一変した。


「はっ……!?」


 我に返った俺は、自分の拳を口元に押し当てていた。

 サクママンの人格が、思わず浮上しかけていたのだ。


(まずい……朝でもないのに、筋肉人格が出てくるなんて)


 制服のスカートを握りしめ、なんとか笑顔を作って取り繕う。

 他人から見れば、ほんの冗談にしか見えなかったはず――そう願いたい。


 混沌としていた。だが、その中に“確かなもの”もあった。


 ノエルが静かに寄ってきて、耳元で囁いた。


「ユリエールさま。……放課後、少しだけ、お時間をいただけますか?」


「いいけど……どうした?」


「貴女に伝えたいことがあるのです。“わたくし”として、“あなた”に」


 その表情は、いつもより少しだけ、切なかった。


 放課後、バラ園の奥の東屋。


 ノエルは、まっすぐに俺を見つめて言った。


「あなたが、いずれ“どの姿でもなくなる”こと。……もう、気づいていますよね?」


「……うん」


「そして、わたくしの“この想い”も、きっと、いつか“届かなくなる”ことも」


 それは、恋の告白だった。


 このユリエールという姿に宿る“俺”に対して――ノエルは本気で恋をしていたのだ。


「……ありがとう」


 心から、そう言った。

 でも、その“ありがとう”は、きっと残酷だった。


「……わたくしは、ただ知っておきたかったのです。あなたが、誰を好きで、誰に別れを告げるのか」


「……俺はまだ、決められてない」


「それでも、あなたが“選ぶ側”であることが、嬉しいのです」


 ノエルは微笑んだ。その目に、涙を浮かべて。


「例え、それが“永遠のさよなら”でも……わたくしは、あなたに選ばれた今夜を、忘れません」


 そう言って、そっと去っていった。



夜。


 窓辺に座って、俺はユリエールの姿のまま、月を見上げていた。


 ユウの記憶、サクママンの感覚、ユリエールの思考。

 すべてが体内でざわめき、俺を“俺”として定義する境界が、ゆるやかに崩れていくのを感じていた。


「俺って……誰なんだろうな」


 そう呟いたとき、部屋の空間がゆらぎ、虹色の光が降る。


「お待たせっ☆ ミルミルちゃん、降☆臨〜!」


「……今、まじめに悩んでんだけど」


「わかってるよ? だから来たんだもん。今日は少し、ちゃんと話すね」


 いつもよりほんの少しだけ、真面目な顔をしてミルミルは言った。


「ゆうたくんは、“どの人格”で生きたい?」


 その問いは、重く、しかし優しかった。


「……まだ、決めてない。でも、たぶん“全部残したい”って思ってる」


「そっか。でも、世界はそれを許さないかも。

 三つの異世界、それぞれの“主軸”に対して、一つしか未来を選べないんだ」


「……つまり?」


「どの世界を“リアルな世界線”として維持するか。

 他の二つは、“夢”か“記憶”か、あるいは“物語”として終わる」


 それは、人格の統合だけではなく――世界の統合の話でもあった。


 そのとき、頭の中で“ざわめき”が起こる。


 ――誰かが、泣いていた。


 ユリエール? いや、違う。もっと幼い、深く奥底の――


 気づけば、俺の視界がぐにゃりと歪み、部屋がぐるりと反転する。


 そして気づくと、そこは勇者世界の空の下だった。


 魔法の星々が瞬く夜空。草原の風。仲間たちの気配。そして――リゼがいた。


「……来た、のね」


 リゼは、少し赤い目をしていた。


「さっき、ロゼリーヌ学園で見かけたの。私、あの世界にはいなかったはずなのに、今の私の記憶には、確かに“在った”の」


「世界が、重なり始めてるからだろうな」


「あなたが、全部背負ってるのも、知ってる」


 リゼは拳を握りしめた。

 あのとき、剣を抜いた手と同じ強さで。


「……でも、聞かせてほしい。ユウ。あなたは、どの世界で、誰として生きたいの?」


 胸が痛んだ。


 リゼの問いは、きっと――ノエルのそれと同じだった。


 答えによって、彼女たちは、俺という存在を失うかもしれない。

 それでも“聞きたい”と告げてくれることが、たまらなく苦しい。


「……決められないよ」


 素直に答えた。


「みんな、大事だから。どの世界も、どの人格も、俺の一部で。俺は俺でいたいって、ただそれだけなのに……」


 そのとき、空が裂けた。


 まるで異次元がひび割れるように、黒い裂け目が走る。


 その向こうに、第三の世界――サクママンの戦場が見えた。


「ゆうたぁあああああああ!! 聞こえるかァァア!!」


 地鳴りのような叫びが響く。

 サクママンの世界が、完全にこの空間とつながっていた。


「このままじゃ、世界が、混ざりきる前に“崩れる”ぞ!!」


「なに!? どゆこと!?」


 ミルミルが突然現れ、顔をしかめて説明する。


「やばい! 三世界が無理に接続されて、データの整合性が取れなくなってる!

 魂の一貫性が失われると、“ゆうたくん”という存在そのものが分解される!」


「……やっぱ、俺が、決めなきゃなんねぇのか」


 そのとき、ユリエール、ユウ、サクママン――三人の“自分”が、意識の中に現れた。


「お前がどんな答えを出しても、俺はついていく」


「どの形になっても、わたしは、あなたを誇りに思う」


「オラは“ゆうた”の拳として、ずっと力になるぜ!」


 その言葉に、俺は、はっきりと笑った。


 ――そうか、わかったよ。答えはずっと、最初からわかってた。


 俺は目を閉じ、ゆっくりと、世界をひとつに“統合”した。


 人格ではない。世界でもない。

 俺は、ゆうたという存在として生きると、ただ、それだけを選んだ。


 気づけば、目の前に、ひとつの風景が広がっていた。


 勇者の城。ロゼリーヌ学園。筋肉バトルアリーナ。

 すべてが融合した、カオスな世界――だが、誰も違和感なく生きていた。


「やぁやぁ、ユウ様! 今日も筋肉と紅茶が似合いますね!」


「うん。心の筋力、大事だからね」


 そんな会話が、まるで当然のように交わされる。


「やったね、ゆうたくん」


 ミルミルが隣で、にこっと笑った。


「“全部を肯定する”って、勇気がいることだけど……ちゃんと、できたね」


「ま、なにかを選ばなくても、世界はなんとかなる……みたいな?」


「それはない。それは甘え。次はもっと面倒な試練くるから、よろしく☆」


「やっぱ来るんかい!!!!」

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