うたかたの色は
蒼桐大紀
6月9日
放課後の屋内プール棟は、
そろそろと中を覗き込んでいた
左手に持っていた靴下をまるめて、プリーツスカートのポケットに押し込む。
右手に持っていたスケッチブックとペンケースを左手に持ち直し、なるべく素早く、でもできるだけ静かに更衣室の中へと足を踏み入れた。
更衣室の中には、六月の湿り気を帯びた空気が濃厚に満たされているような気がした。千景はおっかなびっくりロッカーの列をすり抜け、小走りで更衣室の端にたどり着く。
まわりに人の気配はなく、走ったときにずれた眼鏡越しに見える景色にも人影はない。右手の親指と人差し指でつるをつかみ、眼鏡を直すと、プールへと続く廊下を見やった。
(せめて、体操着に着替えてくるべきだったかな……)
千影は引っ込み思案なくせに勢いで動いてしまうところがあって、大抵はやってから後悔する。
もちろん後悔しているなら引き返せばいいのだけれど、こんな風にプールに入れるチャンスはもうないかもしれない。
(行こっ)
もし誰かになにか言われたら、「絵の資料にしたくて、プールを見に来ました」と正直に言えばいい。
初対面の人と話すのが大の苦手なのに、なにもやましいところはないから、という妙な開き直りが千景の足を進ませていた。
そもそものきっかけは、昼休みにあった美術部のミーティングだった。
―テーマは夏の光
七月にある市の美術コンクールのテーマがそれで、「出そうと思っている人は、時期的に締め切りと期末テストとの兼ね合いに注意して」というのがミーティングの主旨である。
静森学園高等部美術部は、部員が少ないこともあってか非常に自由な方針で、顧問の美術教師も活動に対してあまり口を挟まない。
ただ、本音としては出展して欲しいらしく、まめにこうした話を振ってくる。
正直なところ、千景はコンクールやコンテストにはあまり興味がない。自分は好き勝手に描いているだけなので、そうした場に絵を出すのはなにか違う気がしてしまう。他人と競う場に出ていくのに気後れを感じていることもある。
でも、テーマを決めて絵を描くのは、昔から好きだった。
描きたいことは世界にあふれていて、
千景にとってテーマは、あまたの描きたいことの中から
このときもそうだ。
顧問が発した「夏の光」という言葉を聞いたとき、反射的にプールの情景が思い浮かんだ。
ゆらゆらと揺れる
断片的なイメージが千景の頭の中に浮かんでは消えた。あまり
いい加減な絵は描きたくない。
そう思ったら、プールを見に行きたくなってしまって、六十五分授業の四時間目、五時間目をそわそわした心で過ごした。
(このまま入っちゃって大丈夫かな……)
誰かと会ったら気まずいし、話すのはちょっと怖い気もするけれど、それ以上にいま描きたいと思っている気持ちが抑えきれなかった。
(面倒くさいな、私……)
かぶりを振って
通路の先の角を曲がれば、プールサイドはすぐそこだった。
先に入っていた誰かは、きっとプールのほうにいるのだろう。わざわざ声をかけてくるだろうか? よしんば声をかけられたとしても
そう心に決めて角を曲がったところで、ふと思い出す。
プール棟は吹き抜け構造の二階建てで、二階部分はプールを見下ろせるギャラリースペースになっていることを。
(あ、上から行けばよかった!)
思ったのもつかの間、足がもつれた。
悲鳴が出かけたのをなんとかこらえる。どうにか転ばなかったものの、小脇にはさんだスケッチブックを取り落としそうになって、あわてて両手ですくった。
そのまま、一歩、二歩とプールサイドに踏み込んだとき、千景は目の前の光景に釘付けになった。
ゆっくりと、ゆっくりと、光る水面の上に線が伸びていく。
窓から射し込む陽の光と、天井から降りそそぐ照明を照り返して、しなやかな手脚と競泳水着をまとった体が、ゆるやかな曲線を描きながら視界の中に像を結ぶ。
プールと向き合うまなざしが見えた。
水飛沫が宙に舞う。
遅れて聞こえた水音が胸の奥まで響いてきて、千景は驚きのあまり飛びのいていた。そのまま通路側の壁に引っ込んで、ずるずるとしゃがみ込む。
どきどきが止まらない。
光の中に見たこともない色彩が現れていた。
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