第3話

 ある日、サッカー部の練習終わり、上戸はグラウンド脇でひと息ついていた。
6月の後半、昨日は雨。

 足元の土はまだ少し湿っていて、踏みしめるたびに、草の青い匂いがふわっと立ち上る。
その中に、自分のシャツに染みついた汗が混じって、夏の空気を強く感じさせた。
生ぬるい風が吹き抜けるたび、肌にまとわりつく汗が少し冷えて、心地よいような、気怠いような感覚が残る。

 草の匂いと、汗の匂い。初夏から夏へ季節が変わる、ほんの少し手前。上戸はこの時期が嫌いじゃなかった。


「お疲れ。がんばってたね」


 着替えて部室を出て数歩。声をかけてきたのは、中原だった。


「また来てたのかよ」

「うん。たまたま、だけどね」


 彼女は、そう言っていつものように無表情に笑った。


「バス?」

「うん」


 ふたりは自然に並んで歩きだす。
夕暮れ前の空はまだ明るく、セミが鳴き始める前の、静かな時間が流れていた。校門を出た頃、上戸は汗を拭いながら、ふと口を開いた。


「なぁ、中原」

「ん?」

「この前、『ちゃんと見てる人はいる』って言ったよな」

「言ったね」

「サッカーは、まあわかるとしてさ。俺の優しいとことか、どこを見てそう思ったの?」


 中原は少しだけ驚いたように目を見開いて上戸を見る。それからゆっくりと顔を伏せた。


「……中学の時のこと、覚えてる?」

「ん?」

「入学したばかりの頃。廊下でハンカチを落としたの。それ、拾ってくれたじゃん」

「ああ、あったっけ? そんなこと」

「あったよ。そのとき、上戸が笑ってくれて……すごく、安心したの。私、隣町から引っ越してきて、
ひとりだけ小学校も違って。それまでは、緊張して、誰とも話せなかったから」


 正直上戸には全く覚えがなかった。だがハンカチが落ちていれば拾うだろう。なんてことない出来事だ。


「そっか。ごめん。俺、全然覚えてないや」

「だよね。思い出せないくらい自然なことなんだよね、上戸にとっては。けど私、ずっと感謝してたんだ。
そのおかげで緊張が解けて、柚月とかとも仲良くなれたし」


 少し遠くを見る中原の目が、静かに弧を描いた。綺麗だ、と思った。上戸は急に顔が熱くなり、ごまかすように視線を外した。


「たいしたことじゃないと思うけどな」

「うん。でも、私にとっては、大事なことだったから。あのときは、ありがとね」

「お、おう」


 風が、少しだけ涼しくなった気がした。
夕焼けの光が、ふたりを静かに包んでいた。


「なぁ、中原」

「何?」


 上戸はバス停の前で息を整え、まっすぐに中原を見据えた。


「俺さ、中原のこと、もっと知りたいなって思ってる」


 彼女は驚いたように瞬きをして、
すぐに、静かに頷いた。


「私も、上戸のこと、もっと知りたい」

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