第2話 王の紋章


 「ダル酒。指三本」

 「ひにゃん」


 振り返りもせずに空いたグラスを持ち上げて、余った指で器用に三という数字を作ってみせるエンディ。後ろから伸びた手が彼女の腿よりも太いステーキの皿をどんと置いた。同時にあげられた奇妙な声は肉に目を輝かせるミャオフの歓声だ。


 「なんだ? もう吞んじまったのか。キツい酒だぞ。さっきだって指三本だったろうが」


 エンディの背で呆れたような声を出したのは、この酒場『小鳥たちの囁き亭』の主人、ゴディオだ。グラスを受け取りながら取り皿を配ってゆく。エンディはナイフを取り上げてミャオフのために肉を切ってやりながら、ちらと彼のほうを見上げた。


 「喉、乾いてんの。いいから早く」

 「喉っておまえ……エールにしとけよ」

 「ダル酒。指三本」


 ゴディオは肩をすくめてカウンターに戻り、どろっとした焦げ茶色の液体が入った瓶を持ってきた。グラスを二つ携えている。エンディの右の椅子に巨大な身体を押し込み、どちらのグラスにも指三本の高さまで酒を注ぐ。ひとつはエンディに押しやり、もうひとつを自分でくいと呷る。

 エンディに見せている左の顔には、大きな傷。顔だけではない。彼が王軍の一員として最後に参加したクエストで魔物から浴びせられた酸は、その左半身をあまねく灼いて、左の膝から先を奪ったのだ。


 「仕事は上手くいったんだろ? なにをそんなに荒れてんだ」

 「荒れてない」

 「なんか言われたのか。依頼主に。飼ってやるとか、推挙してやるとか」


 エンディは頬杖をついて、口いっぱいに肉を含みながら機嫌よさげに頭を揺らしているミャオフを眺めている。返事はしない。


 「……図星かよ」


 剃り上げた後頭部をごりごりと掻きながら、ゴディオはふうと鼻息を吐いた。


 「ま、わからんでもねえけどな。今日の仕事、第二十八孔だったんだろ。攻略前は生還率一割もなかった地獄だ。主が討伐された後はなおさら統制がつかなくなった魔物どもがうようよしてやがるだろう。そんなところに単独で潜って無傷で帰ってくるのを見せられたらなあ」

 「単独じゃない。ミャオフがいた」

 「あち、いた!」


 脂だらけの両手の肉球を高く掲げてミャオフが叫んだ。自分の名前が出たことが嬉しかったのだろう。あち、というのは、エンディが自分のことをあたしと呼ぶのを真似しているのだ。拾われてから三年。生まれてから十数年は経ているように見えるが、人間の数倍の時間をかけて成長する魔物の血を引くミャオフはいまだ、幼年期のなかにいるのである。


 「そうだったな。悪かった」


 エンディの背中越しに左手を伸ばして、ゴディオはミャオフの頭をくしゃくしゃとかき回した。黄金の瞳を弓なりにたわめて、ミャオフは満足そうに喉をぐるると鳴らし、ふたたび肉の塊に向き合った。


 「……で、どうすんだ」

 「どうもしない。何も変わらない」

 「って、言うだろなあ。だけどこういうこと、きっと増えるぜ。聞いてるだろ、大回廊の第四扉。ミリスティゲルの扉だ。とうとう町の評議会が首を縦に振ったらしい。扉を突破する、前線を押し上げるってな」


 エンディはなにも答えず、グラスの中身にちびちびと口をつけている。液体の表面に映る銀の瞳を見つめている。


 大回廊。

 魔王、とも呼ばれる巨大な魔力の凝集体、始原しげんに繋がる広大な地下空間だ。この町、ミリスティゲルはそのいくつかの入り口のひとつの上にある。


 始原はすべての魔力の源泉である。炎を生じ、風を呼び、岩を砕くことを可能とする魔力は、古代の人々に生きる術をもたらした。が、同時に自然をゆがめ、魔物を生み出し、人々の暮らしを脅かすものでもあった。創造主がなんのためにそんな仕組みを用意したのかという問いに、どんな賢人もいまだに答えを見つけられていない。

 ただ、魔力を完全に支配下に置くこと、すべての怯えから解放されることを願った人類は、始原の征服を至上命題とした。

 魔力なり膂力なり、強い力を持つものはダンジョンに向かう。始原、大回廊に繋がる道を攻略し、人々を導き、やがて人類に新しい明日をもたらす。

 冒険者と呼ばれる彼らは、すべての人々の憧れであり、理想だった。


 大回廊はいくつかの枝を伸ばしており、その末端で無数のダンジョンを形成している。わけても数が多かったのが、南方の大都市ニーデバルト、そして北方のここ、ミリスティゲルだ。

 かつてミリスティゲルは荒野だった。が、ここ百年ほどで次々と重要なダンジョンが発見され、冒険者たちが集うようになった。彼らが攻略したダンジョンは開放され、あるいは危険なものは封じられ、そうして居住可能となった後背地には人が集まる。集落を構成し、やがて町が作られ、いまやミリスティゲルは数百のダンジョン遺構を抱える巨大な町と化しているのである。


 「今度は王軍も動くんだとよ。まあ、他の都市の扉はあらかた結果が出ちまったからな。にっちもさっちもいかねえ、って。すっかり尻が重くなっちまったミリスティゲルの評議会もいつまでも抵抗はできねえよ」


 王軍、といったところでふんと顎をあげたゴディオに、エンディはこの夜はじめて小さく笑ってみせた。


 「会いたくない相手、来るねえ。お互いに」

 「会わねえよ。この店は王軍の連中は出禁だ。そもそも王軍は遠征先では酒、飲めねえ。客じゃねえよ」

 「あはは。なら、あたしがその分、消費してやるよ」


 言いながら空いたグラスを押し出すエンディに、ゴディオは思い切り顔をしかめてみせた。


 「だからよ、もうやめとけって。飯も少しは腹にいれろ。明日に響くぞ」

 「明日は仕入れだ。あとは寝てる」

 「エールでいいな」

 「ダル酒、指四本」


 おま、となにかを言いかけたゴディオだったが、動きを止めた。エンディの向こうに視線を置いている。彼女が振り返ると、ミャオフが口を薄く開け、上を向いてなにかを探るように鼻をひくつかせていた。


 「どうしたの」

 「……誰か、いる。立ってる、外に。こっち、みてる」


 エンディとゴディオが目を見合わせ、互いに腰を浮かせた。客なら、扉を開けて空席を尋ねる。通行人なら中の様子を窺わない。ゴディオは客の配置を素早く確認している。襲撃を受けた場合の誘導と迎撃を計算しているのだ。


 「何人いるか、わかる?」

 「んん、ひとり……なんか、かちゃかちゃのやつ、持ってる」


 武装している。情報はそれで十分だった。素早く革帯を締め直し、全身の装備を確認しながら、エンディはゴディオに顔を振り向けた。


 「最近、揉めた?」

 「いや、しばらくはねえな」

 「なら、あたしの客だね。依頼料の踏み倒しか、口封じか」

 「エンディ。うちの若いのを行かせる。おまえ呑んでるだろうが」

 「たかが一杯で跳べなくなるようならあたしもそこまでだよ」


 言いながら、エンディは厨房のほうへ踏み出した。裏口から出るつもりなのだ。その背にゴディオが声を投げる。


 「無理すんな。あとおまえ、二杯飲んでる」

 「ミャオフに野菜、食べさせといて。すぐ戻る」


 食品庫の横の扉に手をかけ、屈みこみ、慎重に開ける。店の熱気が漏れ出て、初夏とはいえ夜になるとぐっと気温の下がる高地、ミリスティゲルの外気が流れ込んでくる。屈んだ姿勢のままで銀の右目だけを隙間にあてて様子を伺う。身体を損なうのなら、右半分がいい。エンディは普段から、冗談ともなくそうしたことを言っているのだ。


 誰の姿もない。扉を大きく開け、踏み出る。夕方にはかかっていた雲が払われていた。正円に近い月が眩しいほどに裏通りを照らしている。


 エンディはふうと息を吐いて立ち上がった。相手は素人だと判断したのだ。襲うなら、厚く雲の降りた夜にするべきであり、今夜は眩しすぎる。

 あえて大きな音をたてて砂利を踏み込みながら、彼女はゆっくりと通りを歩きだした。ついてくるだろうと思ったのだ。

 案の定、角をひとつ曲がったところで、早足で追ってくる音を聞いた。足音を消そうとしていることは感じとれたが、街路での戦闘に慣れていないこともまたよく伝わった。あえて足音を待ち、角の向こうで止まってこちらの様子を覗いているとみた瞬間、エンディは跳んだ。


 右の宿屋の屋根に伸縮索を飛ばし、握りこむと同時にすぐ横の壁を蹴る。引き上げられ、中空に舞ったところで相手の姿が視認できた。男。金髪。白い装束。エンディを見失ったらしく、左右を見回している。

 男の向こうの壁に別の索を放つ。巨大な月を背景に瞬時、さかしまに静止し、一息に男の背に急迫した。膝を突き出し、首筋を狙う。


 が、弾かれた。

 ぎいいん、と、エンディの膝と脛に装備された鉄甲が鈍い音を上げる。再び索を握って宙に戻り、エンディは目を見張った。


 (全方位防御の、常時展開……?)

 

 高度な魔法技術。その習得には長期に渡る厳しい教練に耐える必要があることをエンディはよく知っている。そして現在、そうした教練を実施している機関がこの大陸にはひとつしかないことも。


 男が振り向いた。見上げる。大きく見開かれた薄青の瞳がエンディを捉えた。


 (……これなら!)


 エンディは直下の地面に向けて索を射出した。即座に握りこむ。凄まじい勢いで叩きつけられるが、十分に備えていた彼女は間髪を置かずに姿勢を低くし、地を蹴った。そのまま男の膝元に飛び込み、抱え込んで引き倒す。

 すぐさまにうつ伏せに膝で押さえつけ、背中から抜いた短針を首筋に突き付ける。


 「……どこの者だ。誰に頼まれた」


 が、男は応えない。横に向けた口をぱくぱくとし、小さく首を振っている。苦しくて口がきけない、と言っているようだった。押さえられた瞬間に身体をずらして急所を避けることすらできていない。

 エンディはふんと鼻を鳴らし、男の襟首をつかんで引き上げ、仰向けに回転させた。

 ぱらり、と目にかかる細い髪。怯えたように寄せられた眉は髪と同じ金。


 エンディは、ふたつのことに気がついた。

 その薄青の瞳に月が映りこんでいること。

 そして、白い装束の胸には王の紋章が輝いていること。


  

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