第30話 静かなる兆し

アリがルイの魔力診断をしたという噂は、瞬く間に宮中へ広がった。


しかも、尾ひれ付きで――


「アリア様が陛下を脱がせたらしい」

「なんでも、公然の場で陛下の裸に触れていたとか」

「さすが、妃になられる方は違うな」


脱がせたのも、触れたのも確かに事実ではある。

だが、アリはその噂を耳にしたとき――


「どんな痴女よ! 心外だわ!」

と怒りをあらわにしたものの、冷静に考えてみれば、やったことは事実。

思い返して、じわじわと恥ずかしさが込み上げてきた。


この日も、王宮の廊下では官吏たちが噂話に花を咲かせている。

アリは、ルイの政務室へと向かっていた。


(げっ、また話してる……。噂好きね、まったく。)


心の中ではうんざりしながらも、次はどんな噂が飛び出すか、少しだけワクワクしている自分もいた。


――そして、政務室の扉をノックした。


入室の許可を得て中に入ると、いつものようにエリオットが書類を読み上げていた。

今回は、すでに決裁が下り、予算が執行された案件の結果報告だった。


ルイはすでに何枚かの書類に目を通していた。

彼の手元には、南部駐屯軍への追加予算――その支出報告書が置かれていた。


「次は、軍務省・南部補給課からの結果報告です。

南部辺境駐屯軍の物資補給費、魔物出現への備えと訓練強化費用として、追加で申請されていた件。

8億ルクトの支払いはすでに完了しています」


「そうか。ちなみに当初の予算はいくらだった?」

ルイは確認する。もともとの各省予算は、即位前に決定されていたものだ。


「南部駐屯軍の維持費は、30億ルクトです」


アリは、書類を整えながら会話を聞いていたが――

その額を聞いて、思わず顔を上げた。


(30億に、追加で8億!? すごいわね。どのくらいの規模の駐屯地なのかしら……)


アリの表情に気づいたルイが声をかける。


「アリ、どうかした?」


ハッとしてアリは答えた。


「あぁ……ちょっと、予算額に驚いてしまって」


エリオットが首を傾げる。


「妥当ではないでしょうか?」


アリはやや首を振りながら言った。


「いえ、規模や運営方針によって違うから一概には言えないけれど……。

その駐屯地って、どのくらいの規模?」


「帝国の南端防衛線を担う、中〜大規模の境界駐屯地です。

人員はおよそ1,200名。内訳としては――」

と、エリオットは階級や職務ごとの人数構成も簡潔に説明した。


アリは「なるほど」と頷いた。


「アストリアンでは、大規模の駐屯地でも予算が30億を超えることは滅多にないのよ。

中規模で、改修と訓練施設の増設という名目にしても……8億追加って、相当だわ。

騎士団の指南役として、その施設をぜひ見てみたい!」


アリは、あくまで純粋な興味から目を輝かせていた。


その言葉を受けて、ルイとエリオットがふと視線を交わす。

何か、思うところがあったのだろうか。


「エリオット、国防費の今年度予算と、各駐屯地の支出内訳。洗っておいてくれ」


「かしこまりました」

そう答えると、エリオットは足早に部屋を出ていった。


アリは、ルイに目を向ける。


「……見直すの?」


「うん。恥ずかしい話だけど、今年度の予算は即位前に決められたものでね。

実は、全体像をちゃんと把握できていなかった。

でも君の指摘で、数字の感覚が掴めた気がする。把握しておかなくてはね」


アリは「なるほど」と小さく頷いた。


予算を見直すこと自体に問題はない。むしろ、その方が良いとアリは思った。

けれど、胸の奥に小さな引っかかりが残った。


――本当に、その費用に見合った対策や施設なのだろうか?


それは、長年アストリアンで皇帝を務めてきた者としての、ある種の“勘”だった。


実際に視察した方が良い――そう思ったが、自分が向かうとなれば補佐官としての業務に支障が出る。

軽々しく持ち場を離れるわけにもいかない。


そこでアリは、手の空いていたゼノとノアを現地に派遣することにした。

名目は「定期調査」――各駐屯地に対して定期的に行われる、訓練施設や物資管理に関する軽度な調査である。

視察のように大々的ではなく、現地でも目立たずに動ける。


アリの目的は、書類の内容と現地の実態に齟齬がないかを確認することだった。

ルイもその提案を承諾した。


――そして、数日後。

ゼノとノアは、南部辺境駐屯地へ向かった。


✦ ✦ ✦


――王宮 西の離宮


王宮から西へ馬車で数十分ほどの距離にある、傍系の皇族らが暮らす広大な離宮。

その敷地には、かつて皇族の静養地として用いられた名残が今も残っている。


表向きは穏やかに暮らす高貴な者たちが集う場――

だが、宮中の一部では「動きが不穏だ」との噂もささやかれていた。


その離宮の一角で、声を潜めて会話を交わす男たちがいた。


「南部駐屯地に、定期調査の名目であの娘の部下が向かったようだ」


「ふん、今さらだな。好きにさせておけ。ただし――

 処理は、しておかねばな」


そう言った男は、すぐ傍に控えていた者に目配せする。

命を受けたその者は、闇の中へと音もなく姿を消した――


✦ ✦ ✦


アリは王宮での補佐官の仕事を終え、迎賓館へ戻ろうとしていた。


ちょうど医務室から廊下に出てきた皇族侍医・ルドガーと鉢合わせる。


「ルドガー殿、お久しぶりでございます」

久々に顔を合わせたアリは、丁寧に挨拶をした。


「あぁ、これはアリア様。お久しゅうございますな」

ルドガーは穏やかに微笑み、頭を下げる。


彼は、王宮付きの侍医として長年仕えてきた老医師である。

年を重ねてなお背筋は伸びており、白く整えられたひげと髪がその品格を際立たせていた。

柔らかな物腰と穏やかな声、そして何より、すべてを包み込むような優しい眼差しが印象的だった。


「アリア様は、最近はルイ様の補佐をされているとか。ご立派なことですな。

ルイ様も、かつてはかなりお疲れの様子でしたが……

アリア様がお傍にいらしてからは、すっかりお元気になられております。ふぉふぉふぉ」


「お力になれているのなら、何よりです」

アリは微笑みを返した。


――そう答えたアリを、ルドガーはふと見つめ、しばし沈黙した。

そして、ゆっくりと問いかけた。


「アリア様……体調はいかがですか?」


「私ですか? そうですね……」

元気ですと答えようとしたそのとき、思い出した。


そういえば、《タイタン》討伐のあとに倒れた件で、

一度診てもらおうと思っていたのだった。

だが、ロイ先帝の崩御が重なり、そのまま忘れていたのだ。


「……一度診ていただこうと思っていたのを忘れていました。

実は、魔力切れを起こすと、意識を失うことが何度かあって……

普段は元気なのですが、魔法をたくさん使った直後は、疲れが出やすくて」


そう話すと、ルドガーは優しく頷き、医務室へ入るよう促した。


アリはそのまま椅子に腰を下ろし、診察を受けることに。

急な展開に心の準備はできていなかったが、大人しく従った。


「魔力切れを起こすと……ということですね」

ルドガーはそう確認しながら、アリの手首を取って脈を診る。


それはおそらく魔力探知の応用なのだろう。

触れられた部分が、ほんのり温かくなるような感覚があった。


(おお……。魔力で脈が測れるのね)

アリは内心、素直に感心していた。


ルドガーの脈診はしばらく続いたのち、静かに手を離した。


「……だいぶ、お疲れのように見受けられます。

魔力の流れが、少し弱っているようにも感じられます。

……あまりご無理なさらず、回復に努めていただくのがよろしいかと」


言葉を選びながら、静かにそう告げる。


(やはり、長年魔法を酷使してきたことでの疲労なのか……)


だが、魔力の流れが弱いとはどういうことなのだろう。

最近は鍛錬以外で魔法を使っておらず、体内には魔力が満ちている感覚もある。


気になって、アリは尋ねてみた。


「魔力は有り余っているように感じるのですが……流れが弱いというのは?」


ルドガーは少し考えたあと、ゆっくりと答えた。


「そうですね……魔力そのものは保たれていても、疲労によって身体のほうが追いついていないのかもしれません。

元々の体質である可能性もございます。お倒れになるのは、ここ最近ですか?」


「魔力を使った後に倒れるのは、もう何年も前から何度かあります」


ルドガーは頷き、少しだけ声音を落とした。


「……もし体質によるものであれば、魔法や薬での改善は難しいかと存じます。

疲労をなるべく溜め込まず、魔法の酷使を控えることが、今は何より大切かと」


「そうですか……。ありがとうございます」

アリは静かに頷き、礼を述べた。


「ちょっと疲れがたまっていたのかもしれませんね。

これからは魔力の消耗を少し控えめにします」


診てもらったことで、アリの心は少し軽くなった。

体質によるものなら、それはもう仕方がない。

受け入れて、上手く付き合っていくしかないのだと、そう思えた。


アリは丁寧に礼を述べ、医務室を後にした。


ルドガーは、扉の向こうへと去っていくアリの背を、しばらく見つめていた。

その瞳には、ふと影のような寂しさが宿る。


彼は、そっと手元に視線を落とした。


――長年、数多の身体と向き合ってきた感覚が告げていた。

「これは、普通ではない」と。


だが、どこに異常があるのかはわからない。

医術では捉えられない“何か”が、アリの中で確かに揺らいでいた。


それでも、本人には何も告げられない。

根拠のない不安など、ただの杞憂かもしれないから。


それでもなお、胸に残るざらついた感覚を拭えぬまま――

ルドガーは静かに呟いた。


「アリア様……どうか、ご自愛を」


✦ ✦ ✦

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