わたし間に合ってます!
志乃原七海
第1話「あの八重歯が可愛い」
第一話 わたし、間に合ってます!
「佐藤課長、例のM社との契約、先方から最終合意の連絡が入りました!」
部下の弾んだ声に、佐藤菜々美はパソコンの画面から顔を上げた。肩まで伸びた艶やかな黒髪がさらりと揺れる。切れ長の目に、すっと通った鼻筋。そして、口角をきゅっと上げて微笑むと、右の八重歯がちらりとのぞく。一部の男性社員からは「あの八重歯が可愛い」とおだてられ、気心の知れた同期の早紀からは「あんたのそのキバ、男は騙されるのよねぇ、なーにが(笑)」と揶揄される、チャームポイントだ。
「上出来ね、田中君。これで今期の目標達成も射程圏内だわ」
「ありがとうございます!これも全て佐藤課長のご指導の…」
「いいのよ、チームの成果だから。さ、今日は早めに切り上げて、祝杯でもあげたら?」
完璧な笑顔で部下を労う菜々美は、28歳にして大手広告代理店の営業課長を務める。国立大学を卒業後、海外支社での研修を経て本社に戻り、その手腕と美貌で若くしてこのポジションを掴んだ。周囲からは「才色兼備のバリバリキャリアウーマン」と見られているし、実際、その評価に違わぬ働きをしている自負がある。
退社時刻。菜々美は「お先に失礼します」と颯爽とオフィスを後にする。ハイブランドのバッグを肩にかけ、カツカツとヒールを鳴らして歩く姿は、ファッション雑誌から抜け出してきたかのようだ。すれ違う社員たちが、憧憬と少しの嫉妬が混じった視線を送るのがわかる。
(ふふん、今日の私もイケてるわ)
心の中で小さくガッツポーズを決める。
駅からの帰り道、菜々美はいつものコンビニに吸い込まれた。手慣れた様子でカゴに放り込むのは、缶ビール数本、割引シールが貼られた惣菜、スナック菓子、そして明日の朝食用らしきサンドイッチ。レジで会計を済ませると、店員が「いつもありがとうございます」と声をかける。菜々美はにこやかに会釈し、ずっしりと重くなったコンビニ袋を提げて店を出た。
自宅マンションのドアを開ける。
「ただいまー…って、誰もいないけど(笑)」
独りごちて、リビングの電気を点けた瞬間――そこは、戦場だった。
脱ぎ散らかされた服が小さな山を作り、読みかけの雑誌や書類が床に散乱している。テーブルの上には、いつのかわからないコンビニの空き容器やペットボトルが林立し、ソファの上にはカバンやコートが無造作に投げ出されている。これが、外では完璧なキャリアウーマンを演じている佐藤菜々美の、真の巣窟である。
菜々美はそんな惨状には目もくれず、コンビニ袋をキッチンカウンター(という名の物置)にドサリと置くと、冷蔵庫へ直行。キンキンに冷えた缶ビールを取り出し、プシュッ!と小気味よい音を立ててプルタブを開けた。
そのまま一気に煽り、喉を鳴らして飲み干す。
「っぷはー!うー、んまい!染みるぅー!」
満足げに息を吐き、ビールの泡がついた口元を、手の甲でぐいっと拭った。これが、彼女にとって至福の瞬間。一日の疲れとストレスが、この一杯で浄化されるのだ。
「さて、今日の夕飯は…昨日買っといたアレでいっか!」
冷蔵庫から取り出したのは、賞味期限が今日までのパック寿司。それをテーブルの空いたスペースに置き、再びビールを開ける。テレビのスイッチを入れ、バラエティ番組をぼんやりと眺めながら、寿司をつまみ、ビールを飲む。行儀も何もない。これが菜々美の日常。
ふと、スマホが震えた。同期の早紀からだ。
『菜々美、明日の合コン、やっぱり来ない?イケメン揃いらしいよ!』
菜々美はメッセージを一瞥すると、鼻でフッと笑った。
『パス。わたし、間に合ってます!』
そう返信し、スマホを放り投げる。
(そう、わたしは間に合ってる。仕事も順調だし、一人で好きなように暮らせるこの自由が最高。恋愛?結婚?子供?そんな面倒くさいもの、今の私には必要ないわ)
ビールを飲み干し、ゴミ箱(という名の、ゴミ袋が山積みになった一角)に空き缶を投げ入れる。
あくびを一つ。そろそろ眠くなってきた。
シャワーもそこそこに、適当なTシャツと短パンに着替え、ベッド(という名の、洗濯物が山になった場所の隣のスペース)に倒れ込む。
数分後。
静まり返った部屋に響き渡るのは、穏やかとは言い難い、力強い寝息。
「ぐごー…ぐー…ぐごごごー…」
見た目最高、仕事バリバリの佐藤菜々美課長。その実態は、ゴミ屋敷の住人で、豪快なビール党、そして激しいイビキの主なのであった。
本人は、いたって満足そうに、爆睡している。
そう、彼女は今日も、いろんな意味で「間に合って」いるのだ。(笑)
第一話 終わり
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