第15話 甘くて危険なキッチンと、秘密の夜ふかし
エルミート王国のクリストファー王子との最初の遭遇から数日。
あの黒き王子の不気味な予告は、俺の心の片隅に引っかかってはいたが、幸いにもまだバーンシュタイン邸に押しかけてくる気配はなかった。
その間、俺とフィーリアの甘い(そして少し騒がしい)同居生活は、相変わらず続いていた。
むしろあの一件以来、フィーリアは俺に対してより一層積極的になり、俺もまた、フィーリアの存在が日常に溶け込んでいることを心地よく感じ始めていた。
そんなある日の午後。
俺が自室で借りた本を読んでいると、どこからともなく、なんとも形容しがたい匂いが漂ってきた。
甘いような焦げ臭いような、そして何か得体の知れないハーブが混ざったような、複雑怪奇な香り。
(なんだこの匂いは? まさか、フィーリアがまた何か新しい錬金術でも始めたのか?)
俺が訝しんでいると、コンコン、と控えめなノックの音と共に、エプロン姿のフィーリアが少し頬を小麦粉で汚しながら顔を覗かせた。
その手にはお盆に乗った、見た目が完全に炭と化した丸い何かと、紫色の怪しげな液体が入ったグラス。
「アルフレッド様! ちょっと試作品ができたので、味見していただけませんか?」
キラキラした笑顔。しかしその背後から漂ってくる匂いは、どう考えても「試作品」というよりは「芸術的失敗作」、あるいは「異次元からの贈り物(ただし危険物扱い)」といった方がしっくりくる。
「フィーリア……それは一体? 新種のゴーレムの核とかじゃないだろうな?」
俺は恐る恐る尋ねる。
「もう、アルフレッド様ったら失礼ですよ! これは、アルフレッド様の元気が出るようにって、料理長にココアの扱いを教わりながら作った特製のお菓子とドリンクです! 名付けて、『真夜中のココアボール(見た目は炭)』と『神秘のバイオレット・フィズ』です!」
自信満々のネーミングセンスは不安しかない。ココアボールがなぜ真夜中の色をしているのか、そしてフィズなのに紫色なのはなぜなのか、問い詰めたい気持ちでいっぱいだ。
(真夜中のココアボールって闇の力を秘めていそうだな。そしてバイオレット・フィズ……飲んだら記憶が飛んだりしないだろうな?)
俺の顔が引き攣っているのにも気づかず、フィーリアは嬉しそうに炭、もといココアボールを一つ、俺の口元に運んでくる。
「ささ、アルフレッド様、あーん!」
その瞳は純粋な期待に満ちていて、断れる雰囲気は微塵もない。
俺の知ってる『ほしシン』のフィーリアは、お菓子作りなんてするタイプだったっけ?
いや、確か彼女の好物は「ベリーパイ(ただしお店の)」だったはず。手作りでこの惨状はある意味、らしいのかもしれないが。
俺は覚悟を決めて、その「真夜中のココアボール」を一口齧った。
サクッというよりは、ゴリッという食感。そして強烈な苦味と、後から追いかけてくる、申し訳程度のココアの風味。
焦げが主役らしい。
「ど、どうですかアルフレッド様!? 火加減に気を使ったつもりなんですけど!」
フィーリアが目を輝かせて俺の顔を覗き込む。
(ここで「炭の味がする」なんて言えるか! 推しが一生懸命作ってくれたんだぞ!)
俺は必死に笑顔を作り、ゆっくりと咀嚼しそして飲み込んだ。
「あぁ、こう、カカオの深みが増したというか……大人の味だな。とても気に入ったぞ」
我ながら苦しすぎるフォローだが、嘘は言っていない。大人の味(主に苦味的な意味で)であることは間違いない。
「本当ですか!? やったー! やっぱりアルフレッド様は違いが分かる方ですね! じゃあ、こちらのフィズもどうぞ!」
フィーリアは俺の言葉を鵜呑みにし、今度は紫色の液体を差し出してくる。その液体は微かに泡立っており、グラスの底には何やらキラキラした粉末が沈殿している。本当に大丈夫かこれ。
(これを飲んだら、俺の悪役としての特殊スキルが覚醒したりしないだろうな……『闇の波動』とか)
もはやヤケクソで、俺はその「神秘のバイオレット・フィズ」を一気に呷った。
シュワシュワとした心地よい刺激と共に、グレープのようなフルーティーな甘みと酸味、そして後からほんのりとスミレのような華やかな香りが鼻に抜ける。
「…………お?」
俺は思わず目を見開いた。これは……普通に美味しいぞ!?
「こ、これは! フィーリア、すごく美味しいじゃないか! 爽やかで、後味も良くて!」
「本当ですか!? よかったぁ。これはエドワード様に教えてもらった宮廷秘伝のレシピを、私なりにアレンジしてみたんです! キラキラしてるのは食べられる銀箔糖ですよ!」
フィーリアは本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。その笑顔はどんな高級デザートよりも甘く、俺の心を幸せで満たしてくれる。
たとえ時々、料理がデンジャラスだったとしても。
その後も、フィーリアは時々「アルフレッド様のためだけのスペシャルメニュー!」と称して、俺に様々な手料理(と時々お菓子)を振る舞ってくれた。
成功率は五分五分といったところだったが、俺はフィーリアが一生懸命作ってくれたものなら、どんなものでも「最高に美味しいぞ、フィーリア」と笑顔で(時には涙目で)完食した。
その度に、フィーリアは本当に幸せそうな顔をするので、俺もまたこの上ない幸福感に包まれるのだった。
そんなドタバタとした昼間とは別に、夜には二人だけの秘密の時間ができることもあった。
フィーリアは俺が眠りにつくまで時々俺の部屋にいて、他愛のない話をしてくれるのだ。
学園での出来事、故郷の話、そして俺の知らない『ほしシン』のキャラクターたちの意外な一面(ただの日常会話のつもりでも、俺にとっては貴重な情報源だ)。
ある晩。俺たちがいつものようにソファに並んで座り、小さな声で話していると、フィーリアがふと俺の顔をじっと見つめてきた。
「アルフレッド様って……素直じゃなかったのに、今はすごく優しいですよね。なんだか不思議な感じです」
「俺は今でも根は悪役だぞ? いつお前を裏切るか分かったもんじゃない」
俺は照れ隠しに、わざとぶっきらぼうに言う。
「ふふっ、アルフレッド様はやっぱり素直じゃないですね。でも大丈夫です。もしアルフレッド様が私を裏切っても、私が絶対にアルフレッド様を捕まえて、許しませんから!」
フィーリアは悪戯っぽく笑って、俺の腕にしがみついてきた。その言葉は冗談めかしていたが、瞳の奥には真剣な光が宿っている。
「それに私、知ってますよ。アルフレッド様が本当はすごく寂しがり屋で、不器用だけど誰よりも優しい人だってこと」
(どこでそんな情報を。いや、フィーリアにはお見通しか)
俺は何も言えずただ、彼女の温かさに包まれるしかなかった。
窓の外には、静かな夜空が広がっている。
この穏やかで甘い時間が、いつまでも続けばいい。
そう、心から願ってしまった俺は、もうとっくに、ただの「アルフレッド」として、フィーリアの隣にいたいと願う普通の男になっているのかもしれない。
たとえ、その先にどんな運命が待ち受けていようとも。フィーリアとなら、きっと乗り越えられる。そんな確信にも似た想いが、俺の胸を満たしていた。
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