養老学園「羊雲」
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第1話 お迎え
真っ白いベッドに横たわる枯れ木のような
男はあばらの浮いた胸元に両手を重ね、体重をかけるようにして圧迫する。
「一、二、三、四、五、六、七、八!」
押し込む衝撃でベッドが軋み、老人の喉からふすふすと呼気が漏れた。
「一、二、三、四、五、六、七、八――おい! AEDまだか!?」
男が首を振って叫んだ。どこか遠くから返答があった。男はふたたび老人の胸に手を重ね、肩を入れ、思い切り押し込んだ。
ぼり! めきめきめき!
と身も竦むような音を立て老人の肋骨がバラバラに砕けた。男の掌が老人の躰に深々と沈み込み、乾ききり薄青くなった唇の奥から鮮血を飛沫かせる。
「一、二、三、四――」
しかし、胸骨圧迫は続く。男は額に汗を浮かし、何度も何度も心臓マッサージを繰り返していた。
「AEDきました!」
と声をあげ、薄青い作業姿の女がオレンジの箱を抱えて部屋に飛び込んだ。
男がベッドから飛び降りながら叱責する。
「遅い! なにやってるんだ! もう五分は経ったぞ!?」
「すいません! 何度やっても収納ボックスが開かなくって!」
そう叫び返して女は手早くAEDの蓋に手をかける――が、しかし。
開かない。
まるで接着剤が塗られているかのように、スイッチを押し込んでもAEDの蓋が開かない。拳を叩きつけても、爪を立てて引っ張っても、動く気配すらない。
「もういい! 代われ!」
なんで、どうして、と汗を浮かせる女にしびれを切らし、男が白衣の胸元から万年筆を引き抜いた。AEDの蓋にかけてテコの要領で力をこめる。そのあいだに女は老人の血で汚れた唇を広げ、自らの唇を合わせて強く息を吹き込む。一度、二度、呼吸は戻らない。男が叫ぶように言った。
「救急は!? 連絡したか!?」
「はい! いま向かってます!」
女が叫び返したそのとき、万年筆が折れ、AEDの蓋が開いた。白いシーツが青黒いインクで濡れていく。
AEDが使用ガイダンスを垂れ流すなか、男は電極パッドを老人の胸に貼り付けていった。
『心電図をぉ、調べてぇ、いま、す、ぅ。躰から――れてくださ――』
奇妙に間延びしノイズの混じるアナウンスに、男と女が顔を見合わせる。
プー、プー、プー、プー、と電子音が鳴り響いた。
ただ鳴り続ける。
「おい……どうした? なにやってるんだ! おい!」
男がAEDに怒鳴った。いつまで経っても通電ボタンが光らない。新たなアナウンスも流れない。
男は、くそっ、と短く悪態をつき、再び老人に馬乗りになった。両手を胸元に乗せ、体重をかけた――そのとき。
『離れてください』
穏やかだがよく通るアナウンスが流れた。
バシン! と男の躰が弾けたバネのように伸びあがり、ぐったりと老人の躰に倒れ込んだ。
「学長! 学長! ――先生!?」
女の呼びかけに男は応じない。完全に意識を失っていた。
電気ショックが流れたのだ。
部屋にいるのは心肺の止まった老人と、男と、女一人だけだというのに。
AEDの通電ボタンに、誰も触れていないというのに。
女はべったりと口元にを汚す血液を拭い、部屋の外に叫んだ。
「誰か! 誰か助けて!!」
声だけが空しく廊下にこだまする。
救急車のサイレンの音は、まだ聞こえない――。
*
「……それはもう、凄い有様だったらしいわよお……? 中に入った救急隊もね、
そう声を低くして、同級生の
「やあねえ」
と
面倒だからと短くしたはずなのに、手は自然と前髪に伸び、斜めに流し整えていた。痩せぎすでほうれい線と頬骨の突起が目立つ気がする。口紅はとうの昔に捨ててしまったのだが、孫が持ってきた色つきのリップクリームを年甲斐もなく塗りたくり唇だけが若々しく光って見える。
「やあねえ」
もう一度だけ実子は繰り返し、若々しい朱音に向き直った。
「今月に入って、もう三人目でしょう? この学校、本当に大丈夫なのかしら」
「あははは! やっぱり怖がった! 実子ちゃんたら、怖がりなんだから!」
朱音は手を叩いて声をあげ、泣く子をあやすような口調で続けた。
「幸次郎さんはほら、ステージ3だったから。なんだっけ、ほら、なんとかってところの、すごいやつ。この前の
私がついているから、とでも続きそうな朱音の態度に、実子は息をつきつつ再び窓を見やった。怖いのではなく面倒なのだと言えればどんなにか楽だろう。実子は左手の中指を見つめ、親指で撫でさすりながら尋ねた。
「そういえば、朱音さん、知ってる?」
「えっ? なに? 怖い話?」
自分が聞く段になると、途端に朱音が身構えた。自分本位なのだ。どこまでも。
実子はテーブルに片肘を立てて顎を乗せた。窓を流れる雨の筋が影をつくり、白い天板にのたうつ黒蛇をつくっていた。
「
なぜなら――、
「なに!? なにをやったの!? またトシちゃんになにかしたの!?」
朱音は、学園内で人気を二分する――というか、若い男は二人しかいない――職員の一人、
実子は憤慨する朱音の姿を極力、目に入れないように意識を投げつつ、小耳に挟んだ話を続ける。
「なんでも、よろけたフリをして思い切り掴んだんだそうよ」
「掴んだ? 掴んだって――まさか!?」
ハッとする朱音との間に見えない壁を築きながら実子は淡々と続けた。
「ふぐり」
ようは睾丸だ。
ん、まああああああぁぁぁぁぁぁ!
と喜んでいるのか怒っているのかわからない声が廊下を反響しながら伸びていく。
「信じられない! なんて破廉恥なの! 学級委員長として許せないわ!」
バンバンと机をたたきながら朱音が言った。
実子は遠くに見えた人影に目をすがめる。ほとんど同時に、始業時間を告げる予鈴が鳴った。昔なつかしく、またどこで聞いても大差のない学校のチャイムの音だ。
「……本当にね。美千代さんはお世話になってる自覚が――」
「それで、どうだったっていうの?」
え? と実子は思わず首を振り向けていた。
朱音は唇を固く引き結び、鼻の穴を膨らませていた。
「だから! 大きかったの!?」
実子はため息をこらえ、横目に若い職員の姿を捉えつつ、言った。
「……知らないわよ。自分で聞いたらどう?」
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