潜む影

はっと目が覚めた。

また、嫌な夢を見た気がする。

涼しい季節なのに、冷や汗が止まらない。

携帯で時間を確認する。──夜中の2時。


喉が張り付いたような感覚が気持ち悪くて、静まり返った廊下を抜け、リビングへ向かった。

リビングの静けさに、時計の針の音だけがやけに大きく聞こえてくる。


冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターはひんやりとしていて、それが喉を通るたび、かろうじて現実に引き戻されるような気がした。


それでも、冷えた汗が首筋に張り付いて気持ち悪い。


夢の内容は思い出せないのに、胸の奥だけがざわざわと騒いで落ち着かない。


ソファの背もたれに体を預け、天井を見上げる。ぼんやりと、何もない空間を見つめながら、


「……なんの夢見てたんだろ」


誰にともなくつぶやいた声は、静かな空気に溶けて消えた。



ピンポーン。


丑三つ時に、鳴るはずのない音が耳を打つ。

びくりと肩を震わせた。


(……こんな時間に、誰?)


心臓が、小さくドクンと跳ねる。

慌ててモニターを確認するが、画面は真っ暗で、何の反応もない。……故障?


恐る恐る玄関へ向かう。

廊下は静かで、外の気配もない。

なのに──玄関の向こうには、何かが確かにいる気配だけが、濃く漂っている。


(こわい……でも……)


そっと耳をドアに当てる。

何の音もしない。静まり返った夜。


(ほんとに鳴ったよね……?)


ふいに、背後の闇から視線を感じたような気がして、慌てて振り返る。


誰もいない。ただ、じっと、夜の空気が息をしているだけ。


(わたし、ビビりすぎ……気のせいだって)


自分に言い聞かせるように息を整える。


どこからか、風が吹き込んでくる。

冷たくて、生ぬるい風だった。


呼吸が苦しくなり、胸元の服をぎゅっと握りしめる。震える手で。ドアスコープのカバーに手を掛けた。


ギシ──

床が、かすかに鳴る。

その音に、心臓がまた跳ね上がった。


(大丈夫、大丈夫……なにもいない)


必死にそう繰り返しながら、おそるおそる視線を穴の奥に向けた。


──何も、見えない。


胸を撫で下ろしかけた、そのとき。


暗闇の奥で、何かが、わずかに動いた気がした。


目を凝らす。

それは、黒く沈んだ"空洞"だと思っていた。


違った。


──目、だ。


暗闇だと思っていたのは、こちらを見つめ返す、むき出しの瞳孔だった。

まったく瞬きもせず、石のように、ただそこにある。


瞬間、呼吸が止まる。


喉の奥がきゅっと締めつけられ、空気が通らない。


冷たいものが指先から這い上がってきて、背中をべたつかせる。


(やだ……やだ……なに、あれ……)


つかさ、つかさ、助けて、


声を出そうとするたび、喉からカヒュ、と情けない音しか漏れない。

まるで、"それ"に喉ごと握りつぶされているみたいだ。

逃げなきゃ、逃げなきゃ。でも、体が動かない。


──ピンポーン。



再び、鳴る。

さっきよりも、強く、重たく響いて。


重なるように、ドアノブが荒々しく揺さぶられる音が凍りついた空気を切り裂く。


心臓が、耳元でうるさいほど暴れている。


腰が抜けたように力が入らなくなって、その場にへたり込んだ。


今度は、ドアを叩く音。

力任せに叩いているような重い衝撃音。

玄関の向こうのナニカは、諦めるつもりがないらしい。


必死に目を閉じてやりすごそうとしても、震えが止まらない。膝を抱えて、耳を塞ぐ。

けれど音は容赦なく、耳に叩きつけられていく。


辺りに満ちているのは狂ったような音と、自分の荒い息だけ。


(つかさ……つかさ……)


必死に心の中で名前を呼ぶけれど、助けを呼ぶ声はひとつも外に出ていかない。


身を縮めて、ただ嵐が過ぎるのを待つしかできなかった。


……やがて。

不意に、音が止んだ。


玄関の向こうも、リビングも、急に音を失ったように静まり返る。

耳鳴りだけが、世界を満たしている。


(……いなく、なった……?)


ぴくり、と体を震わせながら、そっと目を開ける。


……何も起きない。


(……終わった?)


なにも聞こえない。

ただ、自分の心臓が、耳の奥で鳴る音だけ。


でも、


次の瞬間、ドアを引っ掻くような乾いた音が響いた。


ぞわりと背筋が凍る。

ガラスを削るみたいに、細く、長く、執拗な音。

だれかがそこにいる。

まだ、玄関の向こうに。耳障りな音を立てている。


もう、限界だった。

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