第二章:湖畔の薬草小屋(01)

 午後の光がゆるやかに傾き始めるころ、陽は干し場へと想を案内した。

 薬草を天日で乾かすための場所は、薬草園のさらに奥、湖のほとりに近い場所にあった。石造りの低い囲いの中に、網張りの棚が三段に並び、草ごとに仕分けされた束が丁寧に並べられている。

「この時間は風がよく通るから、乾きも早いの。虫がつかないように気をつけてね。あとは、風で飛ばないように、網の端に重しを置くの」

 そう言いながら、陽は小石を手に取り、網の端にぽんぽんと並べていく。

 想も真似して石を置こうとしたが、風で舞いかけた葉をつい手で押さえようとして網を突いてしまった。

「あっ……」

「大丈夫。やり直せばいいだけよ」

 叱責ではなく、落ち着いた声。

 想は思わず、ふっと息を漏らした。

「……なんだろう。ここに来てから、怒鳴られたり、急かされたりって、ないですね。こっちが戸惑ってても、みんな普通に“待ってくれる”っていうか」

「うん、そうね。たぶん……ここに住んでる人たち、時間の流れ方をちゃんと知ってるのかもしれない」

「時間の流れ方?」

 陽は軽く頷いた。

「畑も、薬草も、雨も、人間も、無理に早めようとすると必ずどこかでひずみが出るの。だから、“いま必要なこと”を優先して、“待つこと”も大切にしてる。村の生活って、そういうものだと思う」

 その言葉に、想は思い当たる節があった。

 自分がいた世界では、「待つ」ということが、まるで“仕事ができない証拠”のように扱われていた。マニュアルも研修も時間短縮もすべて、「即応」「即判断」「即処理」を求める言葉ばかり。

 でも本当は、それがどれだけ心を擦り減らすか、誰も口には出さなかった。

「……“待たれる”って、安心しますね」

 ぽつりと呟いた自分の声に、陽は少しだけ目を細めた。

「うん。私は、想のそういう言葉が聞けて、安心したよ」

 そうして、陽はふと立ち上がった。

「そろそろ夕方。村の市まで歩いて十五分。ちょうど今日は市日なの。行ってみる?」

「市日……って、マーケットみたいな?」

「そう。村の人たちが自家製の食べ物や道具を持ち寄って開く、小さな市。商人も何人か来るのよ。開かれるのは五日に一度。想にも、村の空気にもっと触れてほしくて」

 想はうなずいた。

 網の整理を終えて、二人は歩き始めた。

 湖畔の道をゆっくりと進むと、先ほどの草花とは違う香りが風に乗ってきた。焼き菓子の香ばしい匂い、香草の匂い、そして遠くから聞こえる小さな楽器の音色。どれもが耳と鼻をくすぐり、心をほぐしていく。

 村の中心にある広場では、数十軒の簡易な屋台が並び、子どもたちが走り回っていた。籠いっぱいの果物を売る老婆、針金細工の飾りを並べる青年、木彫りのスプーンを削る男――すべてが、生活の延長線上にある営みだった。

「……うわ、すごい。なんか、文化祭みたい」

 思わず出た感想に、陽はくすくすと笑った。

「うん、ちょっと似てるかも。けど、ここでは“日常”なの。ね、あっちの屋台。蜂蜜の蒸しパン。今朝、康生が持ってきたやつ、売られてるよ」

 見れば、焼きたての湯気を上げる柔らかなパンに、子どもたちが列をなしていた。

 一つ買って手に取ると、熱が手のひらにじんわりと伝わってきた。

「……これ、俺も作れるようになりますかね」

「なれるわよ。今の想なら、“やってみたい”って思えるから」

 陽の言葉に、想は照れたように笑った。

 蒸しパンを食べながら歩く帰り道。道ばたに咲く小さな花が、風に揺れていた。

 その姿に、想はふと立ち止まった。

「なんか……あの花、会社のデスクに置いてた造花に似てるかも」

「へえ、そうなんだ。何て名前だった?」

「……忘れました。でも、今日見たこの花のほうが、ちゃんと覚えてる」

 そう言うと、陽はそっと立ち止まり、顔を少しだけこちらに向けた。

「なら、それでいい。新しい記憶が、ここから始まっていくんだから」

 夕暮れの光に照らされた陽の表情は、どこか柔らかくて、あたたかかった。

 まるで、長く冷えきった心に差す陽だまりのように。

 想は、胸の中にそっと湧いたその光を、大事に抱きしめるように歩き出した。

(→End)

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