四日目 私の心を奪って、愛せる血の誓いをその三(2025/12/14更新)

「ユリちゃんパパには、もう会うことないから」


 杉浦の覇気のない声が、ユリカの話の腰を折る。

 春の朗読会以来、彼の来たるべき未来への扉は閉ざされてしまった。

 もう諦めることには慣れているようで、その姿が痛々しい。


「…………」


 ユリカの表情から明るさが消える。

 ついにから元気もここまで、とばかりに黙り込んでしまった。


 開いた窓から、冷たい夜風が吹きこむ。

 それはユリカの頬をなで、ふたりの感情の温度差を広げていく。

 カーテンが月明かりの下で静かに揺れていた。


「——ユリカ」


 沈黙に場を制されることは、耐えられなかったのだろう。

 杉浦がぽつり、と語りだす。


「僕は、これからどうすればいいと思う?」


「どうするって?」


 ユリカが軽く返す。

 あまり深刻な事態にはしたくはなかった。


「罪を償えばいいんじゃない?」


 畳み掛けるように続けて、本心を隠そうとした。

 わざとらしい、芝居がかった仰々ぎょうぎょうしい態度で振る舞おうとする。


「それとも」


 ユリカの小さく開かれた口からは、父親と同じく、八重歯のような、鋭い牙が見え隠れしている。

 本人はそれを歯牙しがにもかけていない。


「あたしのとして残りの人生、一緒に生きてみる?」


 ユリカが右の利き手を、杉浦へ差し出す。

 その動作で、座っていた椅子が軋み、音を出した。

 それが合図になったかのように、彼女は饒舌じょうぜつに語りだした。


「そうすれば、は永遠にあたしものになる」


 まるで自分の語りに酔いしれるがごとく、さらに話は続いていく。


「赤い死神の愛を、ひとしずくも残らず、この手に捉えることができる」


「どういうことだよ……ふざけるな!」


 杉浦はユリカの発言の意図が掴めず、困惑したようすを見せる。


「罪人に選択肢はない」


 杉浦の戸惑いや不安、その感情すらも、ユリカはばっさりと切り捨てしまう。


 ——自分は人間より上位の存在、優れている。


 ユリカは死の淵から蘇り、有頂天になっていた。


「さあ、どうしたい? あたしにどうして欲しい?」


「どうしろって、僕は……もう全部、終わりにしたい」


 杉浦がそっと目を伏せる。


「この世界には、はじめから僕の居場所なんてないし、生きているのが辛い」


 頬をひとすじの涙が伝う。


「もう嫌だ……」


 杉浦は流れ落ちる雫を気にも留めず、話を続けた。


「早く、楽になりたい」


 杉浦はぐずぐずと、しゃくりあげている。

 まるで駄々をこねる子どものように、ストレートにものを言う。


「もう、死んじゃいたい……」


 ユリカの青い瞳に映るのは、助けを求める、小さな子どものような杉浦の姿だった。

 それを見ても、心は動かない。


 そんな冷淡な自分の感覚が、一瞬だけ恐ろしくなってしまった。

 それでもユリカは、彼の胸の内を知りたくて、淡々と耳を傾ける。


「それに、もしも死後の世界があるならだけどね」


「あるならば?」


「……僕は、一度でいいから、おかあさんに会ってみたい」


 その姿は、まだ見ぬ母の面影を追う、無垢な姿を装っている。

 ユリカにとっては、それは逃げの口実にしか聞こえなかった。

 実に腹立たしい。


「ああ、そうか。アンタはおかあさんとなんだっけ」


「なに、なんだよ。言い方……」


 先ほどから、ユリカの口を突いて出るのは、チクチクと小馬鹿にしたようない物言いだ。

 杉浦がいらだち、怒りをあらわにするが、それはユリカにとって、取るに足らない些細ささいなことである。


「……それが叶えば僕はもう、地獄にでも冥府でも黄泉でも、どこでも行くよ」


 彼はまるで今までこの世界で得てきた、全てを手放す勢いで大きく息を吐く。

 それは肺の中にある空気を残らず吐きだすがごとく、重く、長いため息だった。


「ふーん。そうなんだ。都合のいいこと」


 杉浦とは対照的にユリカは軽く、明瞭めいりょうに切り捨ててしまう。


「あたしの側は、アンタの居場所ではない、と?」


 自分でも理由のわからない苛立ちをぶつけてしまう。


「そうじゃないよ」


 杉浦はユリカを落ち着かせようとするが、かえって火に油を注いでしまった。


「そうでしょうが!」


 そのひと言が着火剤になってしまった。

 ユリカは油紙あぶらがみに火が付いたように、喋り倒す。


「だって、太田おおたさんに好き、って言われて嬉しかった、って!」


新渡戸にとべさんの残した動画で、アンタは言っていた! それは、あたしはあなたが好き! っていう気持ちを踏みにじった!」


「なんで急に太田さんが出てくるの?」


 急に生えてきた、太田さんの存在に杉浦が戸惑う。


「急じゃない! ずっと引っかかっていた!」


 対するユリカは、胸にあったよどみを吐き出すように訴えかける。


「だったらさ! とっととこの世から、さよならバイバイしなよ!」


「……ユリカ」


「あたしじゃなくて、自分が手にかけた太田さんと、あの世で一緒になりたいんだよね!」


「ユリカ、落ち着いて」


「うるさい! あたしは落ち着いているし、間違ってなんかいない!」


「生きている人間は好きになれない、ってそういうことでしょう!」


「じゃあ、前のあたしに、散々言っていた『好き』って何なの! 不安にさせないで!」


「それに、先一昨日さきおとといの! 人の顔を見るなり『抱きたい』って何なの! ただの性欲解消の捌け口? 最低!」


「それは……ごめん」


 杉浦が肩を落として謝る。

 しかし、ユリカの感情の爆発は収まらない。


 次の彼のひと言が、ユリカの再び動き出した、不安定な心臓という、エンジンの回転数を跳ね上げてしまった。


「ユリカ、聞いて。僕はね——」


「浮気者!」

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