四日目 真夜中と真昼の夢その一(2025/09/15更新)

「あたしは吸血鬼——」


 ユリカが淡々と言葉をつむぐ。

 この時、彼らの時間の流れは、止まったかのような錯覚さっかくおちいっていた。


「人間じゃない。あたしは、あなたとは違う」


「何それ」


 繋いでいたふたりの手は、自然と離れ、距離ができる。


 杉浦の反応を最後に、辺りが沈黙に包まれた。

 しばらくすると、空の底に太陽が沈み、辺りが闇に支配される。


「何なんだろうね」


 暗闇の中からユリカの声が響く。

 廊下の片隅かたすみに生まれる、ふたりだけの世界がそこにはあった。


「正直、あたしもよくはわからない」


「ふーん?」


 杉浦の声は、暗闇と共鳴するように落ち着いている。


「あたしのこと。怖くは、ない?」


「何で? ユリちゃんはユリちゃんでしょ?」


「いま目の前にいるのは怪物だよ。次にあなたを襲うことがあれば、血を、全部残らず吸いつくす。そうしたら、今度、は——」


 ユリカの語りは始終、杉浦を遠ざけるようだ。

 自分の行動の結果が見えてしまい、怖くて最後までは言えない。


 対して杉浦の返しは、ユリカに寄り添うように優しい口調だった。

 彼女に向き直り、目的地である部室を背にする。


「いいんじゃない。君に襲われて死ぬなら本望かもね」


「え?」


 発言の主はまるで、自分自身にてんで無頓着むとんちゃくなように聞こえた。

 予想外の答えに、ユリカはあっけにとられてしまう。


「何で……?」


 やがて暗闇に目が慣れてくる。

 目の前にはおだやかに微笑む、彼の姿が暗がりに溶けて染み出してきた。

 そんな表情を見るのは、長い付き合いでも初めてのような気がする。


「何で、そんなに投げやりなの?」


 彼の目は闇を溶かしたように暗い。

 前はもっと生き生きとして、横にいると温かさを感じていた。

 ユリカからは今の彼が、まるで死を望んでいるように見えた。


「今のあなたは、生きているのに、死んでいるみたい」


「…………」


 彼は無言で答える。

 その後ろ姿は、今の言葉で傷ついてしまったように感じてしまう。


 そんな態度に緊張して、ユリカは自分の心臓の音が聞こえてくる気がした。

 息が詰まって、上手く呼吸ができない。


「ごめん、言い過ぎた」


 ユリカは無意識のうちに、一瞬だけギュッと目を閉じて謝る。

 すぐに目を開けると、足が自然に動きだした。


 ふたりは、目的地の新聞部部室に向かって再び歩き出す。


 ◇

 ——気がつくといつの間にか、新聞部入り口のドアが目の前にあった。

 反射的に足が止まる。


「さっきのことね。僕はいつでも本気だよ」


 彼は鍵を開け、扉を引く。


「さあ、どうぞ」


 そこにはいつも同じ、新聞部の部室があった。


「……ふざけないでよ。あたしは誰も傷つけたくない」


 杉浦の投げやりな態度に、ユリカは腹が立った。

 声にもその気持ちを込める。


「けーくんなんて知らない。さっさと荷物取って帰るから」


 彼の横を通り過ぎ、室内へ入る。

 明かりを点ける——怒りで、そこまでは気が回らなかった。


 ◇

 彼は室内へ入ると、カラカラと音を立てて扉を閉める。

 仕上げにカチリ、と鍵を掛けた。


 その音が合図となり、周囲の空気がヒヤリと凍りついたような気がする。


 彼は何かを確かめるように、真っ暗な部室内を見渡す。

 そこに音と光はない。

 まるで宇宙空間に取り残されてしまったような、孤独感を感じる。


 やがてその姿は足音もなく、幽霊のように静かに歩きだした。

 ふいに影が飛び跳ね、音を立てる。


 その体の扱いは乱暴で、自分自身を傷つけているように感じる。

 そうして無造作に、自席の机の上に腰掛けた。


(あれ? 笑っている?)


 ユリカがしばらく観察していると、明かりのない、暗闇の中でもその体が小刻みに揺れているのがわかった。


「ふふっ」


 笑いをこらえ切れずに、彼はただその言動に支配されているように見えた。

 はたから見れば、ひどく不自然で、作りもののように見える

 その姿はまるで、子どもに乱暴に扱われてしまい、壊れても大切にされている、オモチャのようだ。


「くくくっ」


 震える拳は、笑い声を吸い込み、こもらせる。

 細身で背の高い身は、猫のように丸くなる体勢をしていた。

 何がおかしいのかは、ユリカにはよくわからない。


「笑っているの、久しぶりに見たかも」


 ただ思いついたままを口にする。


「そうなの?」


「うん。倒れた後、しばらくは喜怒哀楽きどあいらくが、消えたみたいに見えたから」


「ふーん? あの頃のことは、もう忘れちゃった」


 そう呟いて、彼は机の上に寝転がる。

 焦点の外れた目がそれぞれ、真っ直ぐに天井を向いていた。


 それに意思はなく、ただ彷徨さまよっているだけに見える。

 胃の奥で熱いものがうごめき、吐きそうになった。


「うっ——、あれは……あなたの抜け殻を見ているみたいで、辛かったから」


 言いながらも、胸が詰まる。


「うーん? 僕は生まれ変わったんだ。はそのキッカケだよ。でも、ユリちゃんのことは大好き、って気持ちはずっとある」


 そう言って彼は、手を胸に当てる。

 まるで自分の気持ちを、確かめているように見えた。


「この気持ちは、なくしたくないんだ……」


 これは彼の本音だと、ユリカは感じる。

 同時に彼の為にできることは何もない——。

 途方にくれて、無力感で立ち尽くしてしまう。


「でも、今は辛い。何も感じないければ、楽なんだけどね」


 そう言って、杉浦はチラリとユリカを見る。

 机の上にある長い脚は、だらしなく垂れ下がり、その身を乱暴に放り出す。

 それは荒んだ心の表れに見えた。

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