第7話 襲撃

テレビから聞こえるノー天気な笑い声で物想いから現実に引き戻された。


たいして面白くもないネタなのに観客の笑い声が効果音で流れると釣られて笑ってしまう。

これが繰り返されると番組そのものが面白かった気がしてくる理屈は、洗脳とかサブリミナル効果と同じなのかもしれない。

ちゃぶ台の向こう側に転がって落書きにいそしむ友季と、片手にコップの飲み物を持ったままテレビに夢中な亜季。

2人を眺めているだけで心の底からほっこりする。

もうすぐ結婚10年の節目を迎えると思うと感慨深いものだ。

子供は寝る時間ではあるが、居間でテレビから流れるくだらないバラエティ番組を一緒に見ながら風呂あがりの晩酌を楽しむ。

ささやかな幸せとはこういう瞬間を言うのだろう。



ガタン! バリバリ・・・



突如、何かが破壊される激しい物音が響き渡った。

はっとした表情でこちらを見る亜季と友季。

「ねぇ、今の何!? 車が突っ込んできたんじゃないの? 友則見て来てよ。」

酔いが回り始めた俺は気付かなかったが、2人は気付いたようで揃ってこちらを見つめている。


「車? うちの前か? 分かった、分かった」

立ち出そうとする俺を見て「わたしも!」と友季が先回りして玄関に向かおうとする。

それを事もなげにヒョイと捕まえる亜季。

笑いながら「あんたはダメ-」との宣告に「見るー」と抵抗する友季。

声とは裏腹に亜季の目は笑っていない。


我が家の番犬ジョンの吠え声が聞こえるが、どうにも様子がおかしい。

普段は誰が来ても全く吠えやしない名ばかり番犬が狂ったように吠え騒いでいる。


「いったい何の騒ぎだ?」

酔った頭でも分かるくらい、尋常じゃない雰囲気をひしひしと感じる。


ギギギ・・・、ガチャン、バリバリ・・・


玄関に向かう間も破壊音は収まることもなく続いている。



納屋の方だ。

ガラスが砕ける音がする。

窓か扉が破壊されているに違いない。

泥棒にしては派手だ。

車か? 動物なら猪?熊? まさか象か?


「お隣さんが酔っぱらって車で突っ込んできたか?」

最も現実的な予想を声に出して、あとは口をつぐんだ。


念のため手近にあったゴルフクラブを握りしめて玄関脇の小窓へと向かい、5cmほどすかして外をう。

納屋のセンサーライトはすでに破壊されているようで、庭のほとんどが闇に包まれている。

闇の中からガチャガチャと金属がぶつかり合うような聞いたことのない音が響いて来る。

しかも意思を持って、こちらに近づいて来るようだ。

玄関灯のセンサーが反応し、スポットライトのごとく破壊者を闇の中から浮かび上がらせた。



「・・うぐ・っ!」



俺の思考が完全に止まっていたと気付いた時にはもう手遅れだった。

玄関に迫る、ゆうに2mを超える相撲取りのような体型。

ユサユサと左右に巨体を揺らしながら近づき、一呼吸おいて、手に持った巨大な刃物 - 両刃斧だ - が振り上げられたのが見えた。

今、まさに玄関扉に向かって斧を振り下ろされる瞬間まで俺は固まっていたのか。

亜季と友季を逃さなくては。

それなのに全く声も出ず、動くことすら出来ないなんて。

目の前に迫り来る危機、その姿はよく知っている。

あぁ、知ってるのだ。

俺が夜中、トイレに行けず寝小便を漏らす原因を作ったのはこいつらだったのだから。



現実世界に住人ではない空想上の生き物が目の前を闊歩かっぽし、今まさにドアを叩き壊そうとしている。

人智を超えた存在を目の前に、俺は悲鳴1つも出せずに立ち尽くしている。

しかしこんなこと、ありえない!

まだ象に襲撃された方が理解できる。

そうさ、祖母から聞いた昔話に出て来る醜悪しゅうあくな鬼がこの世界に存在してはならないのだ。


鬼は弁天様に討伐されたのだ!


居間からはゴルフクラブを握りしめたまま身動きすら出来ず、ここからでも分かるほどにガタガタと震える友則の背中が見える。

玄関の扉は両開きの引き戸でガラス張り。

よく田舎にあるタイプなのだが、そのガラスに巨大な影が近づいて来たのがここからでもよく見える。


「友の・・・り・・・」

声をかけるより早く扉が弾け飛び、ガラスの破片が宙を舞った。

とっさに友季の抱きしめ身を屈めると、周囲に小さなガラスの破片が降り注いだ。


いったい何? 何が起こったの?!


あまりの出来事に声も出ない。

巨体が1歩踏み出してガラスを踏みつけるガシャという音にやっとのことで顔を上げると、再度、斧が振り上げられたところだった。

走馬灯、スローモーション、呼び名はいろいろあるようだが、実際に経験するのは初めてだ。

時が止まり、体は動かず、同時多発的に複数の記憶がフラッシュバックする。


嫌な思い出、良い思い出、


「あぁ、亜希」

伝えられなかった想い


「あぁ、友季」

子供の頃の思い出、そして恐怖・・・


「亜希、亜希・・・」


右上から振り下ろされた斧の軌跡を目の端で追いながら、頭は過去の記憶を手繰り寄せ続けている。

あれが俺に真っ直ぐ向かってくるなんて。

なぜだ?


嫌だ・・・


刃の大きさ、勢いを見た瞬間、俺は生を諦め呆然と立ち尽くした。

逃げることもゴルフクラブを振り回して抵抗することも思い付かなかった。



ただ骨が砕ける衝撃を感じていた。



体が歪み、右腕がゴルフクラブを握ったまま跳ね上がる様を眺めていた。

一瞬で全てが終わった。

右肩から胸の真ん中まで叩き切られ、吹き出す血が鬼の顔を真っ赤に染め上げてゆくのが見えた。

不思議と痛みは無かった。

走馬灯の続きが見えるだけの時間も無かったのだが、鬼が顔にかかった血を美味そうに舌で舐め上げのが見え、次の瞬間には慈悲深い闇が訪れた。

ついぞ友則は声を出すことは無かった。


10年を共に過ごした夫が真っ二つになり崩れ落ちる様を目にし、私の全てが止まった。


「キャァーーーーーーッ!」

呆然とへたり込んでいる私の腕の中から友季の超音波のような絶叫が響き、否応なく正気に引き戻された。

咄嗟とっさに友季を抱きかかえ、家の奥に向かって駆け出した。

逃げ道は勝手口しかない。

ほんの数mだというのに、どうしてあんなに遠く感じるのだろう?

背後では友季の悲鳴に興奮した化け物が、雄叫びなのか悪意のこもった咆哮ほうこうを上げて友則の亡骸を振り回しているのが分かる。

今のうちに逃げなくては。


廊下を走る私たちの頭上を赤黒い水滴を撒き散らしながら何かが飛び越した。

廊下のどん詰まり、壁にぶつかりドスンと鈍い音を立てて落ちたは友則のゴルフクラブだった。


握りしめた友則の腕も一緒だったのがチラッと見えた気もするが、クラブが床に落ちる瞬間を見計らったかのように電気がパッと消えて、全てを視界から消し去った。

そして周囲は完全な闇になった。

1分も待てば目も慣れて来るだろうけれど、そんな悠長なことをしている時間はない。

いつもの慣れた廊下とはいえ友季を抱いて命の危険をひしひしと感じながら走る経験なんてない。

それでも走るしかない。



あと3歩でキッチン。と思った瞬間、ぬるっとした何かに足を取られてバランスを崩し、そのままの勢いで肩から壁にぶつかってしまった。

上半身の骨が軋む音に合わせて「うっ!」と呻き声が漏れる。

いざという時、私を窮地に落とすのはいつも友則なんだから。


最後まで責任持ってよ!

脈絡もなく批判の言葉が頭をよぎったが、今はそんな場合ではない。

立ち上がって走らなければ。

友季を抱いたまま、立ちあがろうともがくが左足のぬるぬるで上手くいかない。

かたわらに友季を降ろし、邪魔な靴下を投げ捨てるように脱いで立ち上がると、友季の手を引いてキッチンに飛び込んだ。ゴミ箱を蹴飛ばしながら奥まで進み、震える手でドアをまさぐってロックを外す。

思い切りドアを開くと、新鮮な空気が流れ込んできた。

刈ったばかりの草の香に満ちた風に包まれ、裸足のまま勝手口から飛び出していた。


草の香で一瞬安堵しかけたが、背後から迫る怒声にも似た唸り声、ドスドスと低く響く足音、茶碗や皿などが砕け散る甲高い音、そして壁やドアを破壊するような衝撃音は現実だ。

友季の手を引いて走るより、この方が早いだろう。

急いで屈むと友季を受け止めるように抱き上げ、振り返らずに走り始めた。


ちょうど、勝手口のドアが吹き飛ばされた瞬間だった。

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