第3話 高木校長

 校長の姿を探していると、肩を叩かれた。


「おや、まだほとんど彫ってないじゃないか」


 俊は傍らを見上げた。

 校長がいつもの穏やかな笑顔で立っている。古びた焦げ茶色のスーツは、木屑で白くなっていた。

 俊は慌てて木にノミを当てた。


「うん。それでいいですよ」


 しばらく見守っていた校長はそう言って、机の向こう側に回る。


「葭森君も、まだ彫り始めかな」

「はい。さっき、道具を選び終えたところです」


 晴は真面目な顔で、木と俊を見比べている。

 校長もつられたように、俊の顔を見た。

 校長が、うむ、と唸った。


「不思議だな、葭森君の作品は。全く沢内君そのままだ」

「僕、美術は中学校でも5でした」

「そういうことじゃなくってね」


 校長は腕組みし、難しい顔になった。


「友だちを彫ると、その人に対する気持ちが出るんだよ。美化されたり、醜くなったりするものだがね」


 俊も晴を見つめた。

 実際に、俊は晴の像を彫るときに、寝癖を立てないようにしようなどと、少しだけ現実を改変している。晴を友人だと思っているからだ。具体的には、悪く思いたくない、という気持ちがあるから。

 しかし、晴は、俊の像に対してそういう改変がないという。

 そのままということは、気持ちもない、ということだろうか。

 

 ――本当に、俺はこいつとやっていけるのだろうか。

 

 日常、浮かびがちな疑問が胸の奥で幾多の泡になって浮かび、嫌な音を立てて弾けていくように感じた。


「まあ、よろしい」


 校長は俊の様子に気づいたのか、なだめるように手の平を下に向けて、ふわふわと動かした。


「沢村君と葭森君は、作り続けなさい。さて、丸山君と小川君」


 呼び掛けられて、二人が肩をすくめた。


「二人とも、さっきはいなかったようだが」

「気のせいです、先生」


 丸山が明るい声で言った。


「これから気をつけなさい。遅刻は三回で一週間の停学だ」


 校長は顔をしかめる。


「そうでしたっけ」

「生徒手帳を読み直しなさい。校則をきちんと守らないと、退学だってあるんだからね」


 ――森に入ったと告げ口してやろうか。


 また、俊はそんなことを思う。

 だが実行はしない。

 うっかり言えば、それだけで二人は停学だ。遅刻もつけ加えれば退学になりかねない。

 

「ともかく、ずるはいけないよ」


 校長はそう言いながら、度会から出席簿を取り上げた。


「度会君、心配事があったら、校長室に話に来なさい。……おや」


 校長は怪訝けげんそうに度会の手元をのぞく。


「どうしたのかな。全く彫ってないじゃないか」


 度会が木を手で覆った。


「そいつ、美術も駄目なんです。取り柄がなくて」


 内藤があざ笑い、指さす。


 俊は思わず立ち上がった。無意識のうちに、手を内藤の胸元に伸ばしていた。だが、襟をつかむ寸前で拳を握り、こらえる。


「何だよ」


 内藤が、くいっと顎を挙げた。

 やれるもんならやってみろ、というのだろう。内藤の隣には、校長がいる。暴力沙汰を起こせば、いくら俊でも停学は免れない。


「そこまでにしておきなさい、二人とも」


 校長の声は、全てを見透かしているように聞こえた。

 俊は拳を腰の辺りまで引き、唇を結ぶ。

 明らかに内藤の態度が悪いのに、校長は注意をしない。

 噂では、内藤は旧華族の血を引く母を持ち、父親も官僚だという。親戚には会社経営に成功した者も多いらしい。

 血筋、権力、カネ。

 三つそろっている家の子は、篤学学園でも少ない。

 俊はサラリーマン家庭の出身で、入学金は中堅企業の社長夫人である叔母が出してくれている。

 晴は父親が大学教授だ。どういう付き合いなのか、あるいは庶民出身という母親の顔が広いのか、知り合いのカンパで入学金が出たと聞いたことがある。

 俊も晴も、成績優秀により学費は免除されている。その分、試験前は二人とも必死だ。著しく成績が下がれば、免除されなくなってしまうからだ。さらに、順位がより低い生徒の家には、寄付金を求める書類が届けられるのだという。順位が下がれば下がるほど、金額は大きくなる、という話だ。

 もちろん、その分、成績が振るわない者に対する特典はある。試験前に、先生たちや、卒業生で塾経営をしている人や、大学で教鞭を執っている人たちが勉強を教えてくれる。もちろん、そういった特別な家庭教師をありがたがらざるを得ない生徒もいる。

 成績が上がれば学校に支払う金も少なくなり、卒業まで在籍したからといって家が破産する可能性は下がるからだ。

 それでも、成績が上がらず、ストレスが溜まり、転校していく生徒は、年に何名かいた。

 内藤は、どうなっても転校を怖れることはない。学年最下位になっても、潤沢な資金があるのだ。

 カネがあるということは、学園にとってできるだけ大切にしたい相手でもある。

 内藤が何をしても、面と向かって叱られることはない。それが内藤を余計に増長させていた。

 

「度会君、デッサンはよくできているよ」


 校長は度会のスケッチブックを覗き込んでいた。


「だからね、気持ちのまま、正直に彫ればいいんだよ」


 いつもより優しい声だった。内藤を強く叱れないことに対する後ろめたさがあるのかもしれない。

 度会はじっとスケッチブックを見つめていた。手は机の上にはあげられていない。かたくなに木を彫り始めるのを拒んでいるようにも見えた。

 

 ――彫りたくないだろうな。


 俊は、度会の気持ちがわかるような気がした。校長が言うように彫像に気持ちが出てしまうのなら、内藤の像は意地悪な雰囲気を醸してしまうに違いない。

 それを見たら、内藤がどれだけ度会をいたぶるか。


「……わかりました」


 度会が小さくうなずいた。

 校長もうなずき、机から離れようとした。

 

 その時だった。呑気のんきな声が聞こえた。


「校長先生。あの森は何があるんですか」


 ぎょっとして、声の方を見る。

 晴だ。

 

 校長は振り返り、じっと晴を見つめた。いつになく、厳しい顔だ。

 が、やがていつもの穏やかな表情に戻ると、しい、というように人差し指を顔の前に立てた。


「森に入ってはいけない」

「でも」

「入れば退学かも知れないよ」


 だが、晴は相変わらず、のんびりした調子で、こう言った。


「でも」


 校長は長い溜息をつくと、乾いた笑いを漏らした。


「仕方ないな。いいかい。あそこは昔から幽霊が出ると言われている。彫刻家の幽霊だ。魂を彫って像にするというんだ」


 そんな話は初耳だった。

 丸山たちも顔を見合わせている。


「さあ、もうわかっただろう。君のような人ならね。馬鹿なことを考えるんじゃないよ」

「はい」


 晴がうなずくと、校長は背を向け、次の机へと立ち去った。


「どういうことだ、晴」


 だが、晴は肩をすくめただけだった。


「そういや」


 丸山が、校長の背中を見送ってから、内藤を向いた。


「森にあった彫像、内藤さんの像だったんですよ」


 内藤は露骨に嫌な顔をする。


「俺が? 誰が彫ったんだ」

「さあ。でも、やっぱ、すごい美形でした。本物には及ばないっすけど」


 内藤が頬を緩め、へえ、とまんざらでもなさそうな声を上げた。


「度会のもあればよかったのにな」


 彼は目を細めて度会を眺めた。

 度会は耐えるように下を向き、意味もなく机にのみを当てている。


「まあ、本物ほど貧相には彫れないだろうけどな」


 今度こそ、俊は内藤に殴りかかろうとした。


「俊」


 立ち上がった瞬間、晴が名前を呼んだ。

 我に返り、握っていた拳を開く。


「何だよ」

「俊は僕のモデルなんだから。動かないで」


 おっとりした表情だ。

 

 ――おまえ、内藤が何を言ったか、聞いていたか?

 

 苛立ちを覚える。だが、晴に促されて、席に着いた。

 俊を横目で見ていた内藤が、ふ、と笑った。


「度会、おまえさ、そのじじいに彫刻教えてもらえよ」


 内藤の横顔には、勝ち誇ったような明るい笑みが浮かんでいる。


「でも、僕」

「森が怖いのか? 何なら、俺たちも入り口までついて行ってやるぜ」


 すると、丸山が丸い頬を赤くして、咳き込むように言った。


「ふん縛って森に投げ込んでおきましょうか。きっと、じいさんが斧でロープを切ってくれますよ」

「それ、いいな。悪くすれば、ロープじゃなくて首が飛ぶぞ」


 俊は耐えきれず、机を手の平で思い切り叩いた。

 皆の彫っていた木が数センチメートル飛び上がる。

 晴が慌てて自分の木を押さえた。


「やめろ、内藤。おまえらみんな、退学になるぞ」


 内藤が驚いたように体を引いた。

 同時に机の中央で何かが転がる音がした。

 目を遣ると、箱に収まっていた道具が散らばっている。

 晴が焦ったようにそれをかき集めていた。


 ――また、晴か。


「晴、気をつけろ。刃物なんだから、一つずつ箱に入れろって」


 手伝おうと、道具に手を伸ばす。


「見たか? 冗談の通じない奴だぜ」


 隣で内藤の声が聞こえた。


「そうっすね。おい、沢内副会長、森が怖いのか?」


 そちらを向こうとした途端、晴がまた、派手に道具をぶちまけた。今度はこちらにまで、のみが転がってくる。


 ――俺、ほんとうに晴とやっていけるだろうか。


 不安と不満を胸に押し込める。


「何をしているんだよ」


 俊はまた、片づけ始める。

 内藤たちが小さく笑った。


「臆病者だ」


 ――誰がだよ。

 

 せっかく忠告してやったのに、馬鹿にする材料にするなんて最悪だ。

 今度こそ、と立ち上がりかける。

 すぐに、晴が俊の手をおさえた。

 顔を上げると、晴がこちらを見ていた。俊と目が合うと、晴は、駄目だ、というように視線を軽く左右に振った。そんな大人びた姿を見たのは、初めてだった。


「内藤君は怖くないの?」


 度会が小声で尋ねた。

 ちらっと見ると、度会が半ばあきらめたような上目遣うわめづかいで、内藤をうかがっている。

 

「当たり前だろう。森なんて、何度でも行ってやる」

 

 内藤は俊と度会を見て、嘲笑った。

 俊は内心、退学にでもなれ、と毒づいた。

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