第2話 森の彫像
森に降り立つと、真吾たちはフェンスを背に歩き始めた。
フェンスは学園の南側にある。このまま北に歩いて行けば、すぐに美術室、音楽室のある南校舎が見えてくるはずだ。一時間目は美術だったから、そのまま教室に行けばいい。
出欠は、一時間目の授業で取られるからだ。
美術と音楽は、二クラスが同時に授業を受ける。真吾たちの二組は、一組と一緒だ。
出欠は一組から取るはずだから、多少の余裕がある。
森は湿った香りがしていた。
小さい頃、大風邪をひいた時に飲まされた
真吾は立ち止まり、爪先を土に食い込ませる。軟らかい。落ち葉がそのまま、何年も積もってできた土なのだろう。
――山でもないのに。
真吾は小学生の頃、父と長野県に行ったときのことを思い出す。
会社役員の父には、どこでも迎えの車が来る。
そんな生活が窮屈なのか、休みの日は家族を伴ってハイキングやキャンプに行くことが多かった。底の石が見えるようなきれいな川の水、空を埋め尽くす星々。
どこかで加湿器を炊いているのではないかというくらい、舌触りの甘い空気。
父は自然の中では上機嫌になる。
真吾はハイキングもキャンプも面倒だし、疲れるから嫌だった。
ただ、父の機嫌を損ねないため、自然はいいなあ、楽しい、などと言い続けた。
そんな家を逃れて、今は篤学学園のフェンスの中にいる。
――檻から檻に移動しただけか。
あの受験勉強は何だったんだろうな、と一年前を振り返る。
まあでも、塾の夏合宿に行けたのはよかった。おかげで、家族のキャンプに行かずに済んだのだから。塾の友だちとさんざん親の悪口を言い、自分たちの正当性を語った。
――くだらないな、おれは。
自分の存在は一瞬忘れてしまおうと、前を見る。
ところどころ太陽の光が細い筋となって射す以外は光がない。
数分歩いた頃、ふと、人の気配を感じた。
前方の木陰に人影が見える。
「誰かいるぞ」
「え」
敬一が体をすくませた。
「誰だ」
真吾は叫び、そちらに近づいていく。
だが、人影は微動だにしなかった。
「何だ。木の像だよ。彫刻」
ちょうど真吾たちより一回り大きいくらいの彫像だ。
像の顔を見る限り、同じくらいの年齢の男子の姿を彫ったものだ。
彫像によくある裸体ではなかった。学生服のしわまで、よく彫り込まれている。
人と見違えたのは、光の少ない森の中だからだろう。それに、この像はよくできている。
詰め襟の学生服は、ボタンの模様まできれいに彫られている。篤学学園高校の校章だ。
「うちの学生がモデルだぜ。この制服ってことは、二十年以上、前のものか」
腹の辺りを叩くと、どん、と重い音がした。
「やめろよ」
敬一がと小さな声で言い、真吾の手を押さえる。
「何でだよ」
「この像、かなり古いじゃないか。ところどころ、黒ずんでるし。先輩の作品じゃないのか。ずっと置いてあるってことは、その人、偉くなっているんだよ」
真吾は敬一の手を振り払う。
「偉い? そんな人間の作品が、こんな森に放置されていると思うか。まあ、もし、
にやりと笑うと、真吾は手を伸ばし、像の頬を張った。
「やめろってば」
敬一の悲鳴を聞きながら、真吾は反対側の頬を張った。
「本当にやめろよ。誰かいるって」
嘘だろ、と言い返そうとしたとき、前方の暗がりが、がさりと鳴った。土を踏む音だ。
敬一が、腕をつかんだ。
「真吾、まずいよ。引き返そう」
「馬鹿。本当に遅刻するぞ」
「だって」
「構ってられるか。行くぞ」
怒ったように言ってみたものの、真吾も気味の悪さを感じていた。
この像を彫ったのが先輩だとしたら、何故、手入れもされずに置かれているのだろう。
そもそも、像には制作者の名前もタイトルもない。
誰かの作品ならば、説明書きくらいあってもいいはずだ。
足早に像の前を通り過ぎ、北とおぼしき方に歩く。
しばらく行くと、前方に一際明るく陽が射しているところが見えた。
真吾たちは走った。
光の中で立ち止まり、目を閉じて深呼吸する。
冷たい森の空気で肺が満たされた。
ほっとして目を開けると、また、人影があった。
彫像だ。
「校長じゃないか?」
敬一が気味悪そうに見上げる。
スーツ姿の若い男の像だった。
手にはハンマーと、のみを持っている。どちらも、木から彫り出されたとは思えないくらい、本物そっくりだった。
校長、と言われれば面影がある。
それに、校長は美術を担当している。ちょうど、今、真吾たちも同じ道具を用意され、像を彫る授業を受けているところだ。
像は本物より一回り大きいだろうか。さっきの像と同じくらいだ。
ただ、かなり昔の姿だった。
高木校長は既に七〇歳だが、像は、どう見ても三〇歳前後だ。
こちらもずいぶん傷んでいる。でも、最初に見つけた像よりはマシだった。
――こんな頃から、優秀ですって顔をしてやがるな。
生真面目な校長の顔が憎らしい。
世の中には、小さい頃から大人になるまで、真面目にやっていてもおかしくならない連中がいるのだろう。そんな連中に頭を抑えられる世界が、一流校と言われる学校にはあらかじめ備わっている。
――どうせおれはヒエラルヒーのてっぺんにはいけないんだよ。
そんなことは、中学時代にわかっていた。わかっていないのは、真吾のことを優秀だ、頑張ればできると、信じて浮かれ続ける親たちだ。
「行こうぜ」
真吾は校長の像の横を通り過ぎる。
だが、一〇メートルも行かないうちに立ち止まった。
前方にある彫像は、詰め襟ではなく、ブレザーの学生服姿だ。
顔は見慣れた男子のものだ。
同じ二組の生徒で、真吾でも敬一でもない。
男子ばかりのこの高校でも、滅多にお目にかかれない美形。
――
像は、本物そっくりなのだが、本物よりも美しく見えた。
知的な眉も、目元も、整った鼻筋も、まったくさげすみも嫌味も含まない。
――出来が良すぎる。
真吾は、無理に
「さっきのより、ずっと新しいぜ」
「内藤君、このこと知っているのかな」
「知らないんなら、おれたちが知らせたら面白がるだろうな」
内藤は興味を持つかもしれない。この森には立ち入ってはいけないことになっている。
もし、内藤が森に入ったら? それが、誰かに見つかったら。
――どうなっちゃうんだろうな。
内藤の不運を想像し、真吾は愉快な気持ちになる。
不意に背後で土が鳴った。
慌てて振り返ると、光が見えた。
陽を浴びて光っている。
――斧だ。
斧を持っているのは老人だった。
灰色の髪はいくらか薄くなり、顔はどす黒い。落ちくぼんだ目だけが大きくて、印象に残る。
老人は、ゆっくりと斧を振り上げた。
よく研がれた刃に、太陽が映った。
真吾たちは叫んで背を向け、北に向かって走りだした。
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