第50話 アリアの憎悪
「ノヴァ……ノヴァ……!」
マルスが婚約者の身体を抱きしめて、強く呼びかけている。
アリアは廃墟の壁際で床に座り込みながら、そんな光景をぼんやりと見つめていた。
(『聖女はもういない』? 『未来は取り戻せない』? わかっているわよ……そんなこと言われなくたって、私だって……!)
床に散らばっていたホコリを掴む。
マルスが説教してきた内容など、全てわかっていたこと。
アリアは全てを理解したうえで、それでも一縷の望みをかけて繰り返しを望んだのだ。
(仮に『滅獄の魔女』がもう一度厄災を起こしたとしても、私は聖女にはなれない。魔女を覚醒させた私を女神は選ぶことはない……そんなこと、考えるまでもなくわかりきったことじゃないの……!)
アリアは決して馬鹿ではない。愚かではあるのだろうが。
彼女は自分がしていることに何の意味もないことを理解していた。理解したうえで、このような蛮行に及んだのである。
「……マザー・クリスロッサ…………」
震える唇が何者かの名を紡いだ。
それはアリアにとって何よりも大切な、母親同然の女性の名前である。
アリアは孤児だった。両親を流行り病によって亡くして、とある修道院に引き取られ育てられた。
孤児院での生活は楽なものではなかった。わずかな寄付金、敷地内にある畑を耕しての生活。
夏は日差しに打たれながら必死に働き、冬は仲間と身を寄せ合い寒さに凍えながら、どうにか暮らしていた。
幸福か不幸か聞かれたら間違いなく不幸であると答えるが……それでも、地獄にだって花は咲く。
豊かではない生活の中でも、アリアは小さな幸せを獲得した。
『アン、寒くはない? 風邪を引かないようにね?』
アリア……修道院では『アン』と呼ばれていた彼女にとっての幸福はマザー・クリスロッサという人物に出会えたことである。
クリスロッサは修道院の責任者であり、そこにいるシスター全員にとっての母親のような人物だった。
修道院には様々な人間がいる。アリアのように親を亡くしてしまった者もいれば、親から捨てられてしまった者、素行不良により押し込まれた者もいた。
クリスロッサはそんなシスター達に分け隔てなく手を差し伸べて、優しく、それでいて厳しく導いてくれた。
(大好きだった、大切だった、愛していた……でも、彼女はいなくなってしまった……!)
しかし……クリスロッサは死んだ。それこそが、アリアの最大の不幸である。
クリスロッサの死因はありふれたもの。アリアの両親を奪ったのと同じ流行り病だった。
決して、治らないような病気ではない。薬があれば助かるはずだった。
しかし、辺境の田舎町では薬は高価な物である。クリスロッサを助けるために薬を購入すれば、冬に備えて貯えたわずかな金銭が尽きてしまう。
修道院にいる大勢のシスターが飢えて、命を落とすことになるに違いない。
『私はもう大丈夫です……皆さん、どうか私の分までしっかりと生きるのですよ……』
クリスロッサはそう言い残して、眠るように息を引き取った。
助けることはできなかった。激しい悔恨がアリアの胸を穿つ。
それから、クリスロッサの次に年配だったシスターが新しく責任者となり、貧しい生活は続いていく。
心にぽっかりと穴を開けながら、アリアはシスターとして信仰に身を捧げながら生きていた。
(助けられなかった……聖女の力があれば、マザー・クリスロッサを救うことができたのに……!)
「……ウッ……ウウウウッ……!」
アリアが奥歯を軋むほど噛みしめながら、唸った。
過去に回帰したアリアはクリスロッサと再会した。
そして……再び、別れることになった。二ヵ月ほど前のことである
過去に回帰してやり直しても、アリアには彼女を救えなかった。聖女の力を失くしているアリアには恩人を救う手立てはなかったのだ。
(どうしてよ……どうして、女神は私から聖女の力を奪ったの? 加護さえあれば、マザー・クリスロッサを助けることができたのに。世界を救った私に、どうして恩人の命を救う機会さえ与えてくれないのよ……!)
過去に回帰して、もう一度クリスロッサの死を経験して……アリアの心は砕けた。
一度目は仕方がないことだと諦めることができた。
しかし、二度目は納得できなかった。聖女の力さえあれば、クリスロッサを救うことができたとわかっているから。
アリアは憎んだ。聖女の力を奪った女神を、理不尽な二度目の別れを強いた世界を、自らを苛む運命を。
憎んだ、恨んだ、どうしようもないほどに。
(やり直す……何度だって、やり直す……マザー・クリスロッサを救うことができるのなら、何度だって世界を壊してやる……!)
世界が壊れれば、新しい聖女が現れる。
聖女が時間を巻き戻して回帰を続ければ、いつかクリスロッサを救える未来にたどり着くことができるかもしれない。
アリアがノヴァを誘拐して、魔女に仕立て上げようとした動機である。
「……マルス様?」
「ノヴァ……良かった! 俺のことがわかるか!?」
「はい、わかります……会えて良かった、私の旦那様……」
座り込んだアリアの見つめる先で、マルスとノヴァが抱擁を交わしている。
自分は不幸のどん底にいるというのに……どうして、彼らだけが幸せにしているというのだろうか。
「……許せない…………」
アリアがつぶやく。
しかし、その声は二人きりの世界にいるマルスとノヴァには届かない。
二人はアリアのことを無視している。憎悪がさらに深くなる。
「聞きなさいっ……!」
「!」
大声を張り上げると、ようやく二人が驚いた。
マルスが警戒した様子で、ノヴァが唖然とした様子で、アリアに視線を向けてくる。
アリアはようやく注目してきた二人に唇を歪めて、言い放つ。
「その男は時間をさかのぼっているわ! 未来の世界で魔女になった貴女と戦って殺しているのよ!」
そして……一線を越えた。
やってはならないことを、禁忌の言葉を吐き捨てたのである。
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