第10話
校舎間を往来する生徒たちの邪魔になってはいけないから、と
「
微笑ましそうに目を細める小藤に「俺は単なる成り行きです」とさり気なく訂正を入れてから、壮悟は早速本題を切り出した。
「小藤先生がここの生徒やった頃から、北高の七不思議ってあったんですか」
「どうやったかなぁ。あんま興味ないからろくに聞いてへんだけど、怖ぁい噂みたいなんはあったと思うで」
「噂って、今の北高の七不思議の基になったやつ的な?」
いつの間に取り出したのか、
小藤の視線が渡り廊下の端から端まで巡る。過去にここを歩いた自身の幻影を追っているかのようだった。
「例えばやけど……二人は理科実験室の事情は知っとる? 換気扇のとこで鳥が巣ゥ作っとったけど、それを知らんまんまスイッチ入れてしもうたやつ」
〝理科実験室では、死んだことに気づいていない雛鳥たちが餌を求めて今も鳴いている〟――北高の七不思議の三番目だ。目を輝かせて「知ってます!」と答えた敏毅の隣で、壮悟はぎこちなくうなずいた。
小藤は敏毅の七不思議に傾ける情熱にじゃっかん引いた様子ながら、そのまま話し続けた。
「あの噂は私が入学したころにはもうあったなぁ。そやから吹奏楽部のパート練習で校内の色んな場所に散らばったりしても、理科実験室だけは絶対に誰も入らへんかったね。残骸が掃除されんまま残っとるから気色悪いし、鳴き声も聞こえて怖いでって。他にあったんはあれやわ、百段階段。上るたんびに段数違うってやつやね。階段の怪談なんてこんなん定番やろうけど。あっ、別に親父ギャグ言うたわけちゃうでね。たまたまよ、たまたま」
小藤が恥ずかしそうに口元を手で隠して笑う。弓なりにしなった細い目がよりおかめ感を強くした。
敏毅がメモ帳にシャーペンを走らせ、壮悟はそっと横から覗き見る。理科実験室と百段階段の噂を書きこんだのだろうが、ミミズがのたうち回ったような字でまともに読めなかった。
「小藤先生が聞いたことある怖い噂って、その二つだけですか。午前四時四十四分にしか鳴らない幻のチャイムとか、下校時間を過ぎたら現れる鬼教師の霊について聞いたことは」
「あらへんねぇ。私が卒業した後に出来た話ちゃうかな。北高の七不思議ってまとめられとんのも、佐久間くんのことが話題になってから知ったくらいやし。その七不思議って他にはどんなのがあるん?」
「さっきの四つ以外だと、あとは『使用禁止になったプールの水を抜いてはいけない』『被服室に飾られているウェディングドレスが夜な夜な泣く』と、最後の一つが『美術部に入った生徒は毎年誰か一人死ぬ』ですね」
敏毅がシャーペンの先端でノートを叩いてすらすらと述べ、壮悟は「聞きたいのは最後の美術部のことなんです」と表情を引き締めた。
「先生がここ通っとった頃に、美術部の部員で亡くなった子ォが
知りませんか、と聞くつもりだったのに、言葉が出てこなかった。
小藤の表情が明らかに変わっていたのだ。おかめ顔の最たる特徴とも言える微笑みは、辛うじて形が保たれているものの全体的に引き攣って見える。頬に添えられていた手にも力がこもり、指先が数秒前より少し深く皮膚に沈んでいた。
壮悟は敏毅と目を合わせて、体の横に垂らしていた指先でさり気なく小藤を示した。
――絶対になんか知っとるぞ、これ。
言わんとしていることを察したようで、返事の代わりとばかりに敏毅が一度瞬きをしてからペン尻を一回押した。
「居たんですか、美術部の部員で亡くなった子」
「……どうやったかな」
記憶力の良さを自称し、先ほどまで二人の質問にすらすらと答えていたはずが、小藤は目を伏せて首を傾げる。
所属していたのが吹奏楽部なのだから、美術部の事情を知らなくてもおかしくはない。とはいえ学校という空間は意外と狭い。よその学年や部活、特にかかわりのない生徒や教師のことであっても、周囲の誰かが話していればなんとなく耳に入ってくるものだ。
小藤が本当になにも知らない可能性はもちろんあるけれど、そうと結論付けるにはいささか反応が気にかかる。黙って話の続きを待つ壮悟と敏毅に、やがて小藤は諦めたように小さく吐息をついた。
「……ウェディングドレスの方やったら心当たりあるけど」
えっ、と二人の返事が重なった。壮悟は驚き、敏毅は拍子抜けの響きを含んでいる。
「十一月んなったら文化祭――秋祭りがあるやん。一日目は模擬店やったり校庭でクイズ大会とかやるんやけど、二日目は体育館で部活やクラスごとで出し物やるのよ」
ちなみに吹奏楽部も毎年そこで演奏しとるからね、とさり気なく情報を突っ込まれて、壮悟は反射的に「ゲッ」と呻いてしまった。中学の頃クラスメイトに「暁戸くんってあんまり吹奏楽部っぽくないよね」と揶揄われてから、吹奏楽部部員ではない生徒の前で演奏するのが少々トラウマなのである。
それはともかく、小藤の話だ。
「二年生の秋祭りの二日目にね、同じ学年で別のクラスがファッションショーやったんやわ。そのクラスの子ォが一人、最後にウェディングドレス着て出てきて、スピーカーからワーグナーの〝婚礼の合唱〟も流れ始めるし、一体全体なにごとってなったんよ」
状況が呑み込めなかった小藤だったが、隣に座っていた友人はそれなりに事情を知っていた。
ウェディングドレス姿で現れた生徒には、入学間もなくから交際している同級生の男子がいた。二人は仲睦まじく学年で評判のカップルだったのだが、今年の夏休み明けに突然別れてしまった。他に好きな子が出来たから、と男子が振ったそうだ。
互いの友人たちは驚いた。「あんなに仲が良かった二人が別れるなんて」と。振られた女子は意気消沈したものの、周囲の励ましもあって、元カレに対する想いを残しながらも徐々にメンタルを回復したという。
男子が友人たちに相談を持ち掛けたのは、秋祭りの準備が始まった頃だった。
「『元カノとよりを戻したいから手伝ってくれへんか』ってね。お友だちはみんなノリノリで、そんならめっちゃロマンチックにやったろって話になったんやって」
彼らのクラスの出し物はすでにファッションショーに決まっていた。それを利用して二人の再交際を全力で後押しすることになったのである。
主役となる元カノにはウェディングドレス風、元カレにはタキシード風でそれぞれ白い衣装をクラスメイトたちが総力を挙げて手作りし、それを纏った二人はファッションショ―のクライマックスに両側の舞台袖から現れ、中央で顔を合わせる。元カレは元カノの前に跪き、もう一度付き合ってほしい旨をたらたら記した手紙を全校生徒の前で読み上げた。
「元カノさんが涙ぐみながら『よろしくお願いします』て返事した時の一体感すごかったわぁ。みんなが一斉に拍手するとこんなデカい音なんやってびっくりするくらい。最後に二人が抱き合ってキスした時なんか、あちこちで口笛鳴っとったね」
カップルの復縁で幕を下ろしたファッションショーだったが、二人の雲行きが変わったのは一ヶ月後だ。
「また女の子が振られたんやわ。理由は前と一緒。『他に好きな子ォおる』って。別れるなり元カレの方は新しい彼女とイチャイチャし始めて、そんなん見せられた元カノさんは当然ショック受けるでしょ。家に片付けとく場所あらへんでって被服室に置いてあったウェディングドレスをね、泣きながらズタズタに切り刻んで捨てたらしいんよ。それで話は終わりやと思っとったんやけど……噂があるってことは、今も被服室にあのドレス残っとるんやね。もう二十年も経つのに、びっくりやわ」
元カノは捨てたつもりでいたが、誰かが密かに修復して戻したのかもしれない。ウェディングドレスには二度も振られた悲しみが染みこみ、癒されることなくすすり泣き続けているのだろう。
「ちなみにその男子って、新しい彼女さんとはどうなったんですか?」
敏毅がメモ帳から顔を上げて問う。七不思議の調査のためというより、単純な好奇心から生まれた疑問のようだ。
「三学期には別れとったよ。女子の方から振ったんやったかな? そのあとも色々ゴタゴタがあったみたいやけど、別のクラスやったであんま詳しいこと知らへんのよ」
「ゴタゴタ……修羅場的な?」
「まあそんなようなもん」はあ、と呆れたように溢してから、小藤はパンっと手を叩いた。「話はこれでおしまい。そろそろ部活行かなあかんでしょ」
スマホで時間を確認してみれば、確かにあと十分で部活が始まる。「ちょっとだけ」と言った割に五分以上も話してくれた小藤にとりあえず礼を言って、二人は早歩きで渡り廊下を進んだ。
「なあアキ。どう思う?」
突き当りを左に曲がって図書室方向に歩きつつ、敏毅が前を見据えたまま問うてくる。
「どう思うって、なにがや」
「さっきの小藤先生の話だよ。二十年前に切り刻まれたはずのウェディングドレスが今も残ってるってあり得るのかな。あんまり現実味無い気がしてさ。ちょっと嘘っぽくない? 七不思議にするのに誰かが脚色したのかな」
――被服室からすすり泣き自体は聞こえるから、ほんまやと思うぞ。ウェディングドレスが泣いとるんかどうかは知らんけど。
事実を教えてやろうか悩んで、壮悟は結局なにも言わなかった。教えたら教えたで被服室に入って調べると言い出しかねず、巻き込まれる未来しか見えない。
それに。
「美術部の噂、なんも聞けやんだぞ」
「……あぁっ!」
本来、小藤から聞きたかったのは美術部の話だ。被服室のウェディングドレスの逸話に気を取られてすっかり失念していたのだろう。敏毅が足を止めて、膝から崩れ落ちんばかりの勢いで頭を抱える。
「先生の反応で『おっ、なんか知ってるっぽい』って思ったのになー。最近調べてなかったところの情報ぶち込まれて吹っ飛んじゃってたわ。アキ、部活の時に先生にその辺改めて聞けたりしない?」
「あかんな。世間話する暇あったら練習せえって先輩に怒られるし。とりあえず続きはまた部活終わってからや。今ここでうだうだ言うとる時間無い」
敏毅は今日、絵画制作の合間に〝まじないの絵筆〟の箱を開けられないか試すという。その結果は部活終わりに聞くと取り決めて、二人は図書室の前で分かれた。
壮悟が美術室で敏毅と合流できたのは、十八時四十分を過ぎた頃だった。
小藤の反応が気にかかって、思っていた以上に集中力が散漫になっていたらしい。パート練習や合奏でのミスを先輩に咎められ、つい五分前までこってり居残り練習をさせられたのである。
「水分補給とかちゃんとした? 顔がすっごく疲れてる」
顔を合わせるなり英梨にそう心配され、壮悟のささくれ立っていた心は少しずつ穏やかさを取り戻した。英梨が好意を寄せているのは敏毅であり、壮悟のことは友人あるいは敏毅と接するための通訳程度にしか思われていないかもしれないが、それでも彼女から向けられる気遣いにほっと癒されてしまう。
「気にしてくれてありがとうな」と英梨に礼を言ってから、壮悟は窓際の椅子に腰かける敏毅に近づいた。
彼の手前にある机には〝まじないの絵筆〟の箱が置かれている。昨日見た時と違うのは、開かないよう巻かれていた紐が見当たらない点である。
「紐
敏毅の向かい側に立って訊ねれば、ニッと白い歯を見せつけられた。
「解いたっていうか、切った」
これで、と敏毅が机の上に黒光りするハサミを置く。美術室の備品の一つだという。
「全然解けないし、引っかいてもずらせなかったじゃん。ところどころ接着剤でくっつけられてたのが原因だったみたいでさ。つけ方が悪かったのか、紐か箱との相性が悪かったのか知らないけど、うまいこと接着されてない部分が何か所かあったから、そこを狙って切ったわけ」
紐を切断する際に掠ったようで、蓋の表面には細い傷がいくつか刻まれている。三年生に見咎められると厄介ではと思ったが、切断作業は部員が全員帰ったのを見計らってからやったため誰にも見られていないと敏毅が豪語する。
「中はもう見たん?」
「さっき見た。本当に普通の、ちょっと使い古された感じがする絵筆だったよ」
ほらこれ、と敏毅が蓋を開けて壮悟の前へ箱を押し出す。
――確かに、なんの変哲もない筆やな。
箱の底には白い綿が敷かれ、筆はそれに埋もれるように置かれていた。蓋の内側には札が張られており〝天照皇大神宮〟と達筆で記されているのを見て壮悟は眉を寄せた。
「……このお札って神棚とかに置いてあるやつちゃうか?」
「思った。漫画とかで鬼みたいな絵っていうか、『勅令』って書いてあるお札を見たことあったらそれ想像してたんだけど、違ったよ」
恐らく先輩たちは「魔除けになりそうなお札」を探した末に、家にあった札を持ってきて張ったのだろう。魔除けの効果が無いわけではないだろうが、微妙にずれている気がしないでもない。
なんにせよ箱が開いたのであれば次に進める。壮悟は箱を敏毅に押し戻して、「それで?」と期待を乗せた声音で訊ねた。
「筆、もう触ったんか」
〝まじないの絵筆〟に触れれば絵が上達するのみならず、ある者は子どもの頃に死んだ犬を見て、ある者は突然花畑の中に佇み、またある者は誰のものでもない不思議な声を聴くなど奇妙な体験をする。敏毅はそれを「霊感が目覚める」と解釈し、幼い頃に出会った美しい女性に再び相まみえるべく、そして「絵を完成させたい」という英梨の未練を果たすため彼女と交流すべく、ずっと筆に触れようとしてきたのだ。
ようやっと願いが叶うかもしれないとなれば、壮悟の到着を待たずに筆に触れているかもしれない。壮悟を介さずに英梨との対面も果たしたかもしれない。
しかし敏毅は「それなんだけどさあ」と花が萎れるように机に突っ伏し、悲壮感満載で続ける。
「触れないんだよ」
「……うん?」
「だから、触れない」
「それはえっと、どういう……?」
困惑する壮悟に、敏毅は「見せた方が早いか」とのろのろと筆を取ろうと手を伸ばす。
が、敏毅の手は箱の上にかざされるばかりで、一向に筆に近づかない。ぎこちなく揺れる指先は、体を掴まれて逃れようと蠢く虫の脚のそれに似ていた。
「こういうことだよ」
敏毅はぐったりと顔を伏せて手を引っこめる。
「触りたくても、触れない。手が下りていかないんだ」
まるで見えないガラスに遮られてるみたいだよ、と敏毅がため息をつくのに合わせて、どこからかふわりと梅の花が香った。
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