第9話『はじめての秘密、ふたりだけのキッチン』



週末の午後。

陽菜の通う小学校では、参観日があった。

黒板の前で、ちょっと緊張しながらも発表する娘の姿に、結月は目を細める。


(少し前まで、あんなに小さかったのに……)


子どもの成長は、本当にあっという間だ。

その日の夕方――帰宅した陽菜は、自分からこう言った。


「ねえ、ママ。前に言ってた“こんど一緒にお菓子作ろう”って、今日やりたい!」


「今日? ふふ、じゃあ夕飯のあと、ゆっくり時間を取ろうか」


「うんっ!」


無邪気に笑う陽菜を見て、結月は静かに胸の奥で決めた。


(今日こそ、教えよう。――あの本のこと)



夜。


夕飯を終え、後片付けも済ませたあと。

お茶を飲んでいた涼が「少し読書してくるね」と書斎へ消えていったタイミングを見計らって、結月は声をかけた。


「ひな、ちょっとだけ……特別なこと、してみない?」


「とくべつなこと?」


「うん。誰にも話しちゃいけない、ママと陽菜だけの、ひみつの場所」


陽菜の瞳がまんまるになる。


「ほんとに!? ひみつの場所って……なにそれ、わくわくする!」


結月は微笑んで、寝室の奥に隠してある白い本を取り出した。

陽菜の前で開いたページには、見開きいっぱいに描かれたキッチンのイラスト。


――《料理制作場》


「これはね、ママがね……ちょっとだけ、がんばってたら“ごほうび”でもらった本なの。

でも、ただの本じゃないよ」


そっとページに指を添え、陽菜にも手を重ねさせる。


「目を閉じて、“キッチンに行きたい”って思ってごらん」


「う、うん……キッチン、にいきたい……」


ふたりが手を重ねた瞬間――


空気がゆらぎ、風のない部屋にやわらかな光が差し込んだように感じた。


そして、ふわりと視界がほどけるように変わる。



「……わぁ……ここ、どこ……?」


目を開けた陽菜は、驚いたようにきょろきょろと周囲を見回した。


そこは、どこか西洋風の、広くてあたたかみのあるキッチン。

真鍮のフックに吊るされた道具たち、淡いクリーム色のタイル、木のぬくもりが感じられる作業台。

窓の外には、やわらかな光の庭が広がっている。


「ここが……ママのひみつ?」


「そう。ここでね、ママはお菓子を作ったり、ごはんを考えたりしてるの。

この本の中には、いろんな場所があるのよ。野菜を育てる畑も、服を作るアトリエもあるの」


「ほんとに、べつの世界に来たみたい……」


陽菜は足元を見たり、棚の上の瓶をのぞいたり、まるで絵本の中に入り込んだみたいに目を輝かせていた。


「じゃあ、今日はふたりでクッキー作りね」


「うんっ!」



結月が思い描くと、作業台の上には、焼き菓子用の材料が並び始める。

卵、小麦粉、バター、そしてドライ果実――今日は、陽菜が好きな「いちごとブルーベリー」を用意した。


「すごい……え、ママ、これって“考えるだけ”で出てきたの?」


「この場所ではね、作りたいって思ったものが自然と手元に現れるの。

でも、ちゃんと“どうしたいか”を考えないと、うまくいかないのよ」


陽菜は目をまんまるにして、生地をこねる手元を真似る。


「じゃあひなも、ちゃんと考えて作る!ぜったい、おいしいのつくる!」


ふたり並んで、粉をふるって、バターを混ぜて、果実を加えて。

手に生地がついて「べたべたする~!」と笑いながらも、陽菜はしっかり手を動かした。


「できたクッキーは、誰にあげるの?」


「……あやちゃんと、ゆりちゃんにあげたい!ママにも!」


「じゃあ、小さい缶を用意して……ラッピングは今度、雑貨の部屋で作ろうね」


「雑貨の部屋もあるの!? 行きたい~~!」



オーブンから漂う甘い香りと、膨らんでいくクッキーをふたりでじっと見つめて。

焼きあがったクッキーを試食したとき、陽菜はひとこと。


「……なんか、あったかい味する」


「うん。きっと、“ママとふたりで作った”っていう味だね」


「これからも、ひみつの場所、いっしょに行っていい?」


「もちろん。もう、ひなもこの本の持ち主だもん」


ふたりだけの、ちょっと不思議なキッチン。

まだ誰にも話していない、やさしい魔法の空間。


小さな秘密を共有した夜。

その思い出は、母娘の心にしっかりと刻まれていった。





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